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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第34章 涙

「おい、これは見せ物じゃねえんだぜ。陽も暮れちまったことだし、さっさと皆、家に引き取って貰おうか」
 岡っ引きが声を張り上げ、ひと睨みすると、それまで表に集まっていた住人たちはそそくさと長屋に引っ込んでいった。
「こちらのお武家は間違いなく、秋月兵庫之助さまでやすね?」
 確認を取るような岡っ引きの口調は、あくまでも事務的で淡々としている。感情のこもっていないその物言いが、泉水にはかえって救いであった。
「間違い―ありません」
 泉水は辛うじて声を絞り出すと、岡っ引きを見た。
「親分」
 〝へえ〟と、岡っ引きが泉水を見た。年齢は泉水の父槙野源太夫より数歳ほど上といったところか。小柄で鬢の髪にはかなり白いものが目立った。だが、鋭い眼付きは、しなやかな獣―豹のような隙のなさを窺わせる。かといって、けして酷薄な雰囲気ではなく、むしろ労りのこもったまなざしで泉水を見つめていた。
「うちの人はどうして、このようなことになったのでしょうか」
 泉水もまた淡々と訊ねた。泉水が感情を露わにしたのは、変わり果てた兵庫之助を見たほんの一瞬にすぎなかった。が、長年、大勢の下手人や殺された仏、更に残された遺族を見てきたこの手練れの親分には、泉水のこの平静さがかえって深い絶望と哀しみの裏返しだとよく判った。
「下手人については、まだ何も判ちゃアいねえ状態でやす。もっとも、あっしらもこのまま手をこまねいて見ているつもりはありやせん。秋月さまを殺(や)った下手人を一日も早くお縄にして見せるつもりでおりやす」
 泉水は黙したまま、変わり果てた良人を見つめている。岡っ引きはこの界隈では名の知れた勘七という男だった。お上から十手を預かって、はや三十年という熟練した岡っ引きである。罪を犯した者にはどこまでも容赦がないが、弱い者には情を示す親分として慕われていた。その反面、凶状持ちや極道からは鬼神のように怖れられている冷酷非情な一面も持つ。
「奥方、秋月さまを殺害したのは、相当の手練れのようですぜ。ここを」
 と、勘七は自分の心ノ臓辺りを指し示し、言った。

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