
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第34章 涙
「兵庫之助さま。遅うございましたね。私、ずっとお待ち致しておりましたのに。だし巻き卵をご一緒に頂こうと思って、愉しみにしておりましたのよ。また賞めて頂けるのではないかと―愉しみに―しておりました、のに」
言葉が途切れた。泉水はそのまま兵庫之助の身体の上に身を投げ出して泣いた。
幾ら泣いても、もう頭を優しく撫でてくれる優しい手も、抱きしめてくれる逞しい腕もない。今となっては、昨夜、兵庫之助と交わした烈しい口づけさえ現の出来事とは思えなかった。
それは、聞く者の心でさえ千々に引き裂くかと思うほどの、底知れぬ哀しみを帯びた泣き声であった。
やはり、あの夜毎泉水を苦しめた悪夢は正夢であったのだ。黒い得体の知れぬ魔物は泉水が折角掴んだささやかな幸せを呑み込み、喰らい尽くしてしまった。泉水はその夜、ずっと兵庫之助の傍で泣き過ごした。
それから二日が経った。兵庫之助の野辺の送りもしめやかに行われ、泉水はまた一人になった。頼まれていた仕事もまだ半ばではあったが、到底取りかかる気にはなれない。
まるで泉水までもが死んだような状態で、飲まず食わずで日がな長屋に閉じこもり、惚けたように座り込んでいた。確かに兵庫之助の死と同時に、泉水自身の心も死んでしまったに相違なかった。
長屋の連中は、可哀想に亭主に先立たれて、泉水は狂ってしまったのだと、ひそかに噂し合った。誰もが二人の人も羨むほどの仲睦まじさを知るだけに、突然、惚れた恋しい亭主を奪われた泉水が狂人となり果てたのも致し方ないことだと思った。
三日めの朝、思いがけぬ訪問者があった。
常のように泉水が何をするでもなく四畳半の片隅に蹲っていると、表の腰高障子がそっと開く気配があった。
「お内儀(かみ)さん、ちょいと邪魔しても良いかね」
聞き憶えのある声に、泉水はゆるゆると声のした方を見る。三和土にひっそりと佇んでいたのは、岡っ引きの勘七であった。
「変わりはないですかい。相変わらず毎日、暑いねえ。良い加減に少しは涼しくなっても良いと思うんだが」
勘七は穏やかな声音で言う。泉水の憔悴ぶりを見て、ハッと胸を衝かれたようであった。が、利口な勘七はそれについては何も触れず、何げない様子で話しかけてくる。
言葉が途切れた。泉水はそのまま兵庫之助の身体の上に身を投げ出して泣いた。
幾ら泣いても、もう頭を優しく撫でてくれる優しい手も、抱きしめてくれる逞しい腕もない。今となっては、昨夜、兵庫之助と交わした烈しい口づけさえ現の出来事とは思えなかった。
それは、聞く者の心でさえ千々に引き裂くかと思うほどの、底知れぬ哀しみを帯びた泣き声であった。
やはり、あの夜毎泉水を苦しめた悪夢は正夢であったのだ。黒い得体の知れぬ魔物は泉水が折角掴んだささやかな幸せを呑み込み、喰らい尽くしてしまった。泉水はその夜、ずっと兵庫之助の傍で泣き過ごした。
それから二日が経った。兵庫之助の野辺の送りもしめやかに行われ、泉水はまた一人になった。頼まれていた仕事もまだ半ばではあったが、到底取りかかる気にはなれない。
まるで泉水までもが死んだような状態で、飲まず食わずで日がな長屋に閉じこもり、惚けたように座り込んでいた。確かに兵庫之助の死と同時に、泉水自身の心も死んでしまったに相違なかった。
長屋の連中は、可哀想に亭主に先立たれて、泉水は狂ってしまったのだと、ひそかに噂し合った。誰もが二人の人も羨むほどの仲睦まじさを知るだけに、突然、惚れた恋しい亭主を奪われた泉水が狂人となり果てたのも致し方ないことだと思った。
三日めの朝、思いがけぬ訪問者があった。
常のように泉水が何をするでもなく四畳半の片隅に蹲っていると、表の腰高障子がそっと開く気配があった。
「お内儀(かみ)さん、ちょいと邪魔しても良いかね」
聞き憶えのある声に、泉水はゆるゆると声のした方を見る。三和土にひっそりと佇んでいたのは、岡っ引きの勘七であった。
「変わりはないですかい。相変わらず毎日、暑いねえ。良い加減に少しは涼しくなっても良いと思うんだが」
勘七は穏やかな声音で言う。泉水の憔悴ぶりを見て、ハッと胸を衝かれたようであった。が、利口な勘七はそれについては何も触れず、何げない様子で話しかけてくる。
