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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第5章 《謎の女》

 槙野の屋敷では塀を乗り越えて何度となく屋敷を抜け出していた泉水ではあるが、流石に嫁いでからは、まだほんの数えるほどした抜け出していない。初めてこの屋敷を抜けだした日、泰雅と町外れで出逢い、その後、泰雅とは知らず、惚れた男逢いたさの一心で塀を乗り越え、願い叶って泰雅に逢うことができた。あの時、咲き誇る桜の樹の下で、泰雅と初めての口づけを交わした。
 それから後も泰雅に逢いたくて数度は屋敷をこっそりと脱出したものの、泰雅にはとうとう逢えなかった。泉水はまた小さく首を振った。どうも、何をしていても考えていても、思考は泰雅の方へと向いてしまうようだ。つい今し方もこれからは今までどおり一人で生きるのだと雄々しく決意したはずなのに、こんな気弱なことでは駄目だ。
 泉水は我が身を叱咤してみる。しかし、どうも勝手が違う。今までなら、大抵のことは自分を鼓舞することで乗り切ってきた。なのに、こと泰雅が拘わってくる問題となると、忽ちにして弱気になり気が挫けてしまう。我ながら、これでは“お転婆姫”の名がすたると思ってしまうほど情けない有様だ。
 そのときだった。縁廊の向こうから賑やかな話し声が聞こえてきた。どうやら腰元が話しながら歩いてくるようで、話し声は次第に近づいてくる。こんな格好を見つかりでもしたら、一大事と、泉水は慌てて身を隠す場所を探した。幸運にも、紫陽花の茂みが格好の隠れ場所になってくれる。泉水は咄嗟に緑の茂みの裏側に身を潜ませた。
 泉水の姿が消えるのと、二人の若い腰元が話しながら通りかかったのは、ほぼ寸分違わぬときのことである。泉水は心底から胸撫で下ろし、息を呑んでなりゆきを見守った。
 あまり見かけぬ顔の腰元たちだが、あまたの腰元たちの中、正室の泉水付きの者たちを除けば、泉水が直接顔を見る機会のある者たちは限られている。この者たちは泉水にではなく、恐らく当主の泰雅付きか、他の役目につく者たちなのだろう。

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