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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第34章 涙

 しばらく心配げに泉水を見つめた後、勘七が〝よっこらしょ〟と立ち上がった。
「あっしも寄る年波で、最近は脚腰が弱くなっちまっていけねえや。この分じゃ、いつまで十手を預かっていられるかも判らねえ。お内儀さん、あっしには物心つくかつかねえ頃に亡くしちまった一人娘がいやしてね。生きてれば、丁度、お内儀さんと同じくれえの歳だ。今頃は娘も人並みに所帯を持って、あっしにも孫の二人や三人はいただろう。もし、お内儀さんが手前の娘だったとしても、あっしは同じことを言ったと思いやす。秋月さまを殺った咎人をお縄にすることはできるが、たとえできたとしても、それじゃア、お内儀さんが余計に不幸になるばかりだ。今は心静かに暮らしなすった方が良い。下手に騒ぎ立てれば、今度は狂った鬼がお内儀さんまでに手をかけようとするかもしれねえ。無抵抗な死人を更に滅多切りにしたような相手だ。もう狂ってるとしか言いようがねえ。まともに話をして通じやしねえでしょう。できるだけ拘わり合いにならねえ方が利口ってもんですぜ」
「親分、色々とありがとうございました」
 泉水は烈しい衝撃をひたすら抑え、深々と頭を下げた。正直、その場に立っていられるのが不思議なほどである。
「いや、たいした力になれねえで、申し訳ないと思ってます。けど、先にあっしが申し上げたことだけはくれぐれも忘れねえで下せえ。今はひっそりと息を潜めて、人眼に立たねえようにした方が良い」
 勘七の言葉に、泉水は頷いた。
「判りました。なるたけ気をつけます」
「辛いだろうが、刻が少しずつは痛みもやわらげてくれるでしょう。お内儀さんはまだ若い、何度でもやり直しができる。早まったことだけはしちゃならねえよ。また、様子を見にこさして貰いやすから」
 勘七はそれでもなお心配そうに何度か振り返りながら帰っていった。
 次に泉水が我に返ったのは、既に夕暮れ刻であった。ふと周囲を見渡せば、少しずつ短くなってきた秋の陽が空を茜色に染めていた。勘七が帰ったのはまだ昼前のことゆえ、またしても飲まず食わずで一日中、惚けたように座り込んでいたに相違ない。
 勘七から信じがたい事実を聞かされときの衝撃と絶望は既に嘘のように静まり返っていた。

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