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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第34章 涙

 泰雅が、兵庫之助を殺した。泉水のかつて愛した男が、今は生命よりも大切だと思う男を殺した。それも、これ以上はないというほど残虐極まりなきやり方で。
 泰雅は一刀流の剣の手練れである。兵庫之助もそれなりに腕の立つ男であったゆえ、恐らくは互角に戦えば勝負は五分五分といったところだったろう。それなのに、泰雅は卑怯にも後ろから気配を殺して忍び寄り、兵庫之助に斬りかかったのだ! 
 せめて、正々堂々と勝負を挑んだ上での闘いであれば、泉水はまだしも泰雅を許せたろう。しかし、泰雅の兵庫之助に対する仕打ちは、あまりにも卑怯であり、残酷すぎた。到底、昔の泰雅からは考えられない所業だ。勘七の言うように、最早、泰雅は人の心を失った鬼となり果てたのだろうか。
 あまりにも残酷すぎる事実であった。
 勘七が出ていったときのまま、表の戸が開いている。泉水は立ち上がり、三和土に降りた。戸を閉めようとした時、ふと夕焼け空が眼に入った。すじ状の雲が幾重にも重なり、たなびいて、それらが淡い紫色に染まっていた。刻々と色を変え様を変え、眺めていても、飽きることがない。雲は菫色と茜色に染め分けられていて、次第に茜色から菫色の部分がひろがってゆく。
 やがて、雲だけでなく空全体が菫色に染まり、夜がやってくる。泉水の眼にいつしか涙が溢れ、頬をつたっていた。仏の教えでは、陽が沈むという西の空の彼方に、極楽はあるという。ならば、今は仏となってしまった兵庫之助もまたあの西の空に旅立ったのだろうか。
 泉水にとって、兵庫之助は生きる希望そのものであった。兵庫之助を失い、これからどうやって生きてゆけば良いのかも判らない。まるで一本道でゆく手を照らす灯を失ったかのような頼りなき心地であった。
―許さぬ。兵庫之助さまのお生命を理不尽なやり方で奪ったあの男を私はけして許さぬ。
 わが生命ある限り、呪い続けてやる。
 所詮、人は宿命(さだめ)から逃れることはできないのだ。幾ら泉水があがこうと、宿命は泉水をどうしてもあの男の許へと連れてゆこうとしているらしい。

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