
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第35章 哀しみの果て
―まだ御子もおわさぬというに、たかだかお手付きというだけの側室風情がご正室のお方さまに何と言う無礼な。
美倻などはその時、たいそう憤ったものだったが。
お千紗の死と泉水は直接的には何の関係もない。それは泉水自身にも判っている。それでも、罪からは逃れられない。泉水がお千紗を好色な泰雅の性の餌食にしたのは間違いもない事実なのだから。あの時、泉水は、あの哀れな娘をけして逃れることのできぬ宿命の渦に引き入れたのだ。
お千紗もまた運命に翻弄された女人には違いなかった。泉水は深い懊悩に囚われたまま、庭を見つめ続けた。その視線の先には、桔梗の花が揺れている。涼やかな白と艶やかな紫のふた色の桔梗がかすかな風に身をそよがせていた。風に揺れる花の上すれすれを赤蜻蛉が一匹かすめていった。
と、少し先の緑の茂みがガサリと動いた。
背後に控える美倻が全身に緊張を漲らせる。茂みは更にガサガサと騒がしい音を立てて揺れる。
「何者ッ」
美倻が鋭い誰何の声を上げる。懐から懐剣を素早く取り出して、身構えた。
「少し待つが良い。猫やもしれぬぞ」
泉水が警戒心を露わにする美倻を制した。
ふいに低木が幾本か重なり合った緑の茂みがぽっかりと二つに割れた。その中からひょっこりと顔を覗かせたのは、四、五歳ほどの幼児であった。前髪立ちの愛くるしい顔は子どもながらもよく整っており、上向きの眼は切れ長で、涼しい。愕くほど父親の―泰雅の顔に生き写しであった。
たとえ名乗らずとも、泉水にはこの幼児が誰であるか、瞬時に判った。母親の勘というのもあったろうが、とにかく泰雅の幼い頃を見ているのではと思うほど似ているのだ。
男の子は恐る恐るといった様子、小さな身体で茂みから抜け出した。美倻がホウと吐息を吐き、懐剣を懐に収める。
「母上―?」
子どもの黒い瞳がこれ以上はないというほど大きく見開かれる。
「母上でいらっしゃいますね?」
わずか生後八ヶ月で手放した我が子との、五年ぶりの再会であった。
「黎次郎」
美倻などはその時、たいそう憤ったものだったが。
お千紗の死と泉水は直接的には何の関係もない。それは泉水自身にも判っている。それでも、罪からは逃れられない。泉水がお千紗を好色な泰雅の性の餌食にしたのは間違いもない事実なのだから。あの時、泉水は、あの哀れな娘をけして逃れることのできぬ宿命の渦に引き入れたのだ。
お千紗もまた運命に翻弄された女人には違いなかった。泉水は深い懊悩に囚われたまま、庭を見つめ続けた。その視線の先には、桔梗の花が揺れている。涼やかな白と艶やかな紫のふた色の桔梗がかすかな風に身をそよがせていた。風に揺れる花の上すれすれを赤蜻蛉が一匹かすめていった。
と、少し先の緑の茂みがガサリと動いた。
背後に控える美倻が全身に緊張を漲らせる。茂みは更にガサガサと騒がしい音を立てて揺れる。
「何者ッ」
美倻が鋭い誰何の声を上げる。懐から懐剣を素早く取り出して、身構えた。
「少し待つが良い。猫やもしれぬぞ」
泉水が警戒心を露わにする美倻を制した。
ふいに低木が幾本か重なり合った緑の茂みがぽっかりと二つに割れた。その中からひょっこりと顔を覗かせたのは、四、五歳ほどの幼児であった。前髪立ちの愛くるしい顔は子どもながらもよく整っており、上向きの眼は切れ長で、涼しい。愕くほど父親の―泰雅の顔に生き写しであった。
たとえ名乗らずとも、泉水にはこの幼児が誰であるか、瞬時に判った。母親の勘というのもあったろうが、とにかく泰雅の幼い頃を見ているのではと思うほど似ているのだ。
男の子は恐る恐るといった様子、小さな身体で茂みから抜け出した。美倻がホウと吐息を吐き、懐剣を懐に収める。
「母上―?」
子どもの黒い瞳がこれ以上はないというほど大きく見開かれる。
「母上でいらっしゃいますね?」
わずか生後八ヶ月で手放した我が子との、五年ぶりの再会であった。
「黎次郎」
