テキストサイズ

胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第35章 哀しみの果て

 泉水が立ち上がり、両手をいっぱいにひろげる。ふわふわとした、やわらかな温もりが突如として腕の中に飛び込んできた。泉水は軽い衝撃と共に黎次郎の小さな身体を抱き止めた。
「黎次郎、大きくなって」
 泉水は五年ぶりに手許に戻ってきた我が子を力一杯抱きしめた。しばらくの間、母子はずっとそのままの体勢でいた。母のやわらかな胸に頬を押し当てる黎次郎からすすり泣きが洩れた。
 その様子に、傍らの美倻もしきりに涙をぬぐっている。
「もう少しお顔をよく見せて下さいませ」
 やがて黎次郎が落ち着くのを待って言うと、黎次郎がこっくりとする。泣いたのが恥ずかしいのか、少し面映ゆげな表情であった。
 眼許の辺りが殊に写し取ったように泰雅に似ている。四歳にしては大柄なのも小柄な泉水とは異なり、やはり、泰雅に似ているのだろう。この子はあの男の子なのだと思い知られた。
 自分はこの子からたった一人の父親を奪おうとしている。たとえ泉水がいかほど泰雅を憎もうとも、この子が泰雅の血を引く息子であるという事実は変わらない。
 泉水は、その現実から今は眼を背けたかった。
 実際に黎次郎に再会するまで、泉水は再会した我が子が自分を母として認識できるとは考えてもいなかった。何しろ、乳呑み児の時分に別れたきりなのだ。が、黎次郎は今日、すぐに泉水を母だと認めた。
 たとえ長い間逢うことはなく過ごしても、互いの身体を流れる血と血が呼び合ったのだろうか。それが真の親子というものなのだろうか。泉水は不思議な感慨に囚われた。
「私が母だとよくお判りになられましたね」
 泉水が優しく言うと、黎次郎は、はにかんだような笑みを浮かべた。
「母上が屋敷にお戻りになられているのは存じておりました。ただ―」
 そこで黎次郎はふっと口をつぐみ、視線を泳がせた。泉水は微笑んだ。
「言いたくないことならば、無理に言わなくても良いのですよ」
「いえ!」
 黎次郎は少しムキになったように叫び、首を振った。
「私は母上には隠し事や嘘はつきたくありません」

ストーリーメニュー

TOPTOPへ