
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第35章 哀しみの果て
そこで再び眼を伏せ、消え入るような声で言った。
「重臣たちに母上に逢ってはならぬと言われておりました」
「そうですか」
泉水は頷き、訊ねた。
「そなたの守役の脇坂もそのように?」
「いいえ、倉之助は一切、そのようなことは申してはおりませぬ。父上も折角母上が戻られたのだ、逢いたいのであれば自由に逢って良いぞと仰せられました」
黎次郎は、それ以上を語らなかった。しかし、泰雅や脇坂の意見以上に、他の重臣たちが強硬に押しとどめたのだろう。
―殿を色香でたぶらかす、傾国の美女。
それが、現在の榊原家の家臣たちが見る泉水の姿であった。そして、まだ四歳ながら、黎次郎は父や守役の意見だけではなく、その他大勢の家臣たちの意見にも耳を傾けるといった態度を保っている。それだけの配慮と分別を身につけているのだ。
―脇坂どの。そなたに心より感謝しますぞ。
泉水は心の中で脇坂倉之助に礼を言った。
黎次郎の利発さ、健やかな成長ぶりは泉水の耳にも届いている。黎次郎の成長は泉水には何よりの歓びであった。そして、それは家老職を辞してまで黎次郎の守役ひと筋に専心してきた忠臣の苦労の賜であった。
「泣いていらっしゃるのですか?」
ふと気遣うような声に、泉水は淡く微笑した。
「これは嬉し涙です」
「嬉し涙? 涙は哀しいときや辛いときだけでなく、嬉しいときにも出るものにございますか?」
聡明とはいえ、そこはやはり幼児である。あどけない声で問う息子を、泉水はもう一度抱きしめた。
「はい、黎次郎君にお逢いできて、母は嬉しくて、このように涙を流しております」
泉水が言うと、黎次郎が笑った。
「実は、表の庭で蜻蛉を追いかけて遊んでいたのです。それで、夢中になって追いかけている中に、脇坂らと離れて、迷うてしまいました。気が付いたら、奥庭まで来ていたのです」
中庭から奥庭は続いている。恐らくは蜻蛉を追いかけている間に、一人で奥庭に来てしまっていたのだろう。
「何だか、蜻蛉が道案内をして、私を母上の許まで連れてきてくれたみたいだ」
「重臣たちに母上に逢ってはならぬと言われておりました」
「そうですか」
泉水は頷き、訊ねた。
「そなたの守役の脇坂もそのように?」
「いいえ、倉之助は一切、そのようなことは申してはおりませぬ。父上も折角母上が戻られたのだ、逢いたいのであれば自由に逢って良いぞと仰せられました」
黎次郎は、それ以上を語らなかった。しかし、泰雅や脇坂の意見以上に、他の重臣たちが強硬に押しとどめたのだろう。
―殿を色香でたぶらかす、傾国の美女。
それが、現在の榊原家の家臣たちが見る泉水の姿であった。そして、まだ四歳ながら、黎次郎は父や守役の意見だけではなく、その他大勢の家臣たちの意見にも耳を傾けるといった態度を保っている。それだけの配慮と分別を身につけているのだ。
―脇坂どの。そなたに心より感謝しますぞ。
泉水は心の中で脇坂倉之助に礼を言った。
黎次郎の利発さ、健やかな成長ぶりは泉水の耳にも届いている。黎次郎の成長は泉水には何よりの歓びであった。そして、それは家老職を辞してまで黎次郎の守役ひと筋に専心してきた忠臣の苦労の賜であった。
「泣いていらっしゃるのですか?」
ふと気遣うような声に、泉水は淡く微笑した。
「これは嬉し涙です」
「嬉し涙? 涙は哀しいときや辛いときだけでなく、嬉しいときにも出るものにございますか?」
聡明とはいえ、そこはやはり幼児である。あどけない声で問う息子を、泉水はもう一度抱きしめた。
「はい、黎次郎君にお逢いできて、母は嬉しくて、このように涙を流しております」
泉水が言うと、黎次郎が笑った。
「実は、表の庭で蜻蛉を追いかけて遊んでいたのです。それで、夢中になって追いかけている中に、脇坂らと離れて、迷うてしまいました。気が付いたら、奥庭まで来ていたのです」
中庭から奥庭は続いている。恐らくは蜻蛉を追いかけている間に、一人で奥庭に来てしまっていたのだろう。
「何だか、蜻蛉が道案内をして、私を母上の許まで連れてきてくれたみたいだ」
