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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第35章 哀しみの果て

 黎次郎のいかにも子どもらしい無邪気な発想に、泉水はつい笑みを零した。
「本当に、親切な優しい蜻蛉ですこと」
「ま、若君さま。おつむの上に蜻蛉が」
 いつもは冷静な美倻が珍しく素っ頓狂な声を上げる。つられて、泉水も黎次郎の頭の上を見た。確かに、赤い蜻蛉が一匹、黎次郎の頭(つむり)の上にちょこんと止まっている。
「本当」
 泉水も蜻蛉を頭に乗せた我が子の愛らしい姿に、思わず眼を細める。当の黎次郎はきょんとんとした表情なのが余計に微笑ましい。
 やがて、蜻蛉はひらりと舞い上がると、黎次郎の頭から手へと移動し、今度は小さな手のひらの先に止まる。
「やあ、本当だ、蜻蛉ですね」
 黎次郎も嬉しげに蜻蛉を眺めている。
 その時、茂みの向こうから呼び声がきこえてきた。
「若君さま、黎次郎君ーッ、いずこにおわしますか」
 呼び声に愕いたように、蜻蛉が舞い上がった。
「あッ、蜻蛉が」
 黎次郎が泣きそうな顔で叫んだが、蜻蛉はひらひらと羽根を動かし、直に茂みの向こうに消えた。
「若君さまー、黎次郎さまー」
 呼び声は依然として続いている。大方、脇坂ら守役や近習が庭で遊んで急に姿を消した黎次郎を探し回っているに相違ない。大切な世継の若君に何かあったら、それこそ一大事だ。目下のところ、黎次郎は泰雅のたった一人の子である。 
「まあ、大変。守役たちが心配して、探しているようですよ」
 泉水は眼を見開いた。呼び声は次第に近くなってくる。
「黎次郎君、守役を心配させるのは良くありませぬ。今日のところはお帰りなさいませ」
「でも」
 黎次郎がうなだれる。
 泉水は黎次を引き寄せた。
「良いですか、黎次郎君はおん小さくとも、立派な男子です。家臣を心配させるのは主君の取るべき行動としては感心できぬことにございますよ。日頃からよく仕えてくれる家臣を安心させるのも主としての務めにございます」

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