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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第36章 臥待月(ふしまちづきの)夜

 泰雅の命で、あらかじめ人払いもしており、今宵は不寝番の奥女中もいない。二人きりの夜であった。
 折しも今宵は伏待月の夜である。冴え冴えとした月に魂までも吸い取られるかのように思えた。
 月の出の遅い伏待月ももう傾きかけている。月面の、影になって欠けている部分も、眼を凝らせばかすかに白く見て取れ、夜もかなり更けていることが知れた。
 泰雅のお渡りがあってから、既にかなりの時間が過ぎている。泰雅は運ばれた夕餉の膳に手を付けることもなく、ただ愛妻を相手に延々と酒を呑み続けるばかりであった。
 泉水は自分から銚子を捧げ持つと泰雅の盃を並々と満たし、更に自分の盃にも酒を注ぐ。
 白くほっそりとした指先で盃を持つと、つと立ち上がり、そのまま濡れ縁まで歩いていった。
「殿、今宵は月が美しうございます。ご覧あそばしませ」
 泉水は妖艶に微笑むと、盃を少し持ち上げて見せ、月影を盃に満たされた酒に映す。しばし、月影を眺めていたかと思うと、ひと息にグイと煽った。白い喉元が動くのを、泰雅は陶然と眺めている。盃を重ねる割には、まだ、たいした酒量を呑んでもいないのに、早くも酒に酔いしれたような酩酊感が彼を支配していた。
 彼を酔わせているのは他ならぬ魔性の美貌を持つ女の艶やかさであった。そう、今宵の月のように禍々しいほどの美しさを持つ、魔を秘めた女の魅力に、泰雅は絡め取られてしまっている。
「確かに、今宵の月は美しい、この世のものとは思えぬほどだ」
 泰雅は掠れた声で呟いた。
 泉水は微笑むと、再び泰雅の許に戻る。
「ま、ほんに殿は、お口がお上手にございますこと」
 すぐ傍らに座り、泰雅に甘えるように言う。
「何の、世辞などであるものか、泉水、そちは美しい。俺は夢を見ているようだ。そなたがこうして俺に身も心も開き、甘えてくる。この日を俺はどれほど焦がれ、待ち侘びたことか」
「それほどに思うて頂き、泉水は果報者にござりまする」
 泉水が媚を含んだまなざしで見上げると、泰雅は耐えかねたようにその華奢な身体を引き寄せた。

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