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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第36章 臥待月(ふしまちづきの)夜

「さあ、俺を殺せ。俺が消えれば、そなたももう泣くことはない。これまであった何もかも忘れられるだろう」
「殿―」
 涙に濡れた眼で見上げると、泰雅が薄く笑った。
「迷うことはない。俺は、どうせもう長くはないのだ。ひと想いに殺せば良い」
―そなたがどのような意図で舞い戻ってきたのだとしても、それがひとときの夢だしても、俺はその夢に縋りたかった。そのお陰で、最後に途方もない夢が見られたんだ。
 つい今し方の泰雅の科白が蘇る。
「殿、それは、どういう意味にございますか? 長くないとは?」
―そのお陰で、最後に途方もない夢が見られたんだ。
 しまいの言葉が引っかかる。
 泉水の真摯なまなざしに、泰雅がふっと笑った。
「相変わらず、そなたはお人好しだな。恋しい男を惨殺した俺の身を案ずるのか? 全っく、人の好いのもたいがいにしろ、だな。悪ィことはできないものさ、これまでさんざん他人を苦しめてきた仏罰が当たったんだろうよ。ま、酒も過ぎたんだろうが、腹の中がもう半分腐っちまってると医者が言ってる。もう何回血を吐いたか判らない。このままだと長くてもせいぜい半年、短ければ二、三ヶ月しか生きられぬと宣告を受けてる身だ。今更、生命を惜しんでみたところで、致し方あるまい」
 泰雅がどこか晴れ晴れとした表情で笑った。
「ゆえに、何もそなたが躊躇する必要はない。俺も地獄の使者とやらに生命を持ってゆかれるよりは、愛しい女の手にかかりたい。さあ、ひと想いにやってくれ。それで、すべてが終わる」
―長かった俺の苦しい恋も漸く終わりにできる。せめて、最後の幕引きは、お前がやってくれ。泉水。
 泰雅の表情は、そう語っているように見えた。
「どうして、お身体をもっと大切になさらなかったのでございますか」
 泉水の口から洩れ出た言葉は、泉水当人でさえ意外なものだった。

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