
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第36章 臥待月(ふしまちづきの)夜
迂闊であったと思う。泰雅の顔色が以前より随分と悪く、どこか黄色がかっていること、少し痩せたのではないかと思ったこと。思い返せば、その兆候は幾つもあった。体調を崩しているとは聞いていたけれど、毎夜、膚を合わせていながら、よもや、泰雅の病がそこまで悪化しているとは想像だにしなかったのだ。
「私には―できませぬ」
懐剣を持つ泉水の手が震え、ポトリと音を立てて落ちる。
「お許し下さいませ」
泉水はそう言うと、頭を下げ、逃げるように寝所を出た。
何に対しての詫びの言葉であったのかは判らない。泰雅を殺そうとしたことか、それとも、死を宣告されるほどに重い病であるにも拘わらず、気付かなかった迂闊さか。
それとも、泰雅への詫びではなく、ついに仇を討ち果たすことの叶わなかった不甲斐なさを、兵庫之助に詫びたのか。
泉水には、どうしてもできなかった。〝ひと想いに殺せ〟と、あっさりと生命を差し出す泰雅を前にして戸惑ってしまった。
あの時、泰雅を殺そうと思えば、殺せたはずだ。恋しい男、ただ一人の男だと思う兵庫之助の仇を討ち、その無念を晴らすことは可能であった。にも拘わらず、泉水は泰雅を殺さなかった、いや、殺せなかった。
殺してくれ、と懐剣を握らされた時、泉水は心の中で叫んだのだ。
―私には、この男を殺すことはできない。
それは、亡き兵庫之助に対して、許されぬ裏切りのようにも思えた。
泉水は涙を流しながら、空を見上げる。
障子の向こうはいつしか白み、冷ややかな明け方の空気を映し出していた。伏待月も次第に明るさを増してくる空の中で、煌々とした光を失い、白っぽく霞んで見えた。
「私には―できませぬ」
懐剣を持つ泉水の手が震え、ポトリと音を立てて落ちる。
「お許し下さいませ」
泉水はそう言うと、頭を下げ、逃げるように寝所を出た。
何に対しての詫びの言葉であったのかは判らない。泰雅を殺そうとしたことか、それとも、死を宣告されるほどに重い病であるにも拘わらず、気付かなかった迂闊さか。
それとも、泰雅への詫びではなく、ついに仇を討ち果たすことの叶わなかった不甲斐なさを、兵庫之助に詫びたのか。
泉水には、どうしてもできなかった。〝ひと想いに殺せ〟と、あっさりと生命を差し出す泰雅を前にして戸惑ってしまった。
あの時、泰雅を殺そうと思えば、殺せたはずだ。恋しい男、ただ一人の男だと思う兵庫之助の仇を討ち、その無念を晴らすことは可能であった。にも拘わらず、泉水は泰雅を殺さなかった、いや、殺せなかった。
殺してくれ、と懐剣を握らされた時、泉水は心の中で叫んだのだ。
―私には、この男を殺すことはできない。
それは、亡き兵庫之助に対して、許されぬ裏切りのようにも思えた。
泉水は涙を流しながら、空を見上げる。
障子の向こうはいつしか白み、冷ややかな明け方の空気を映し出していた。伏待月も次第に明るさを増してくる空の中で、煌々とした光を失い、白っぽく霞んで見えた。
