テキストサイズ

胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第37章 花の別れ

《巻の四―花の別れ―》

 泰雅が突如、倒れたと知らされたのは、その二日後のことであった。伏待月の夜以降、泉水の許に泰雅のお渡りは一切なく、また、寝所へのお召しも絶えていた。
 その時、泉水は既に覚悟を決めていた。
 泰雅を殺すこともできず、兵庫之助の敵を討つこともできぬ我が身が最早、これ以上ここにとどまる意味はなかった。
 復讐は潰えた。だが、そのことについて悔いはなかった。仇討ちを果たせなかった自分を兵庫之助が許してくれるかどうかは判らない。だが、存外、あの男であれば、
―泉水、それで良い。今更、あいつを殺したからといって、俺が生き返るわけじゃねえからな。もう長くは生きられねえと言われてる人間をわざわざ手を汚して殺すこともねえさ。
 そう、言いそうな気もする。むろん、それは泉水の手前勝手な想像だと言われれば所詮、そうなのだけれど。
 しかし、兵庫之助とは、そういう男であったことだけは確かだ。空しい復讐を遂げるために殺人を犯すよりは、過ぎたことは忘れて前を向いて生きろ―、そんな風に諭すような男であった。泉水は、兵庫之助がそんな男だからこそ、あの一途で不器用な、心優しい男を愛したのだ。
 腰元美倻の報告によれば、泰雅の病状は芳しくないという。大量の喀血が弱っていた身体を更に衰弱させ、薄い粥さえ喉を通らない状態であった。床の上に起き上がることもできず、ただ一日中、昏々と眠ったままの状態が続いている。意識がないというわけではないのだが、殆ど眠りっ放しで、たまに眼を覚ましても朦朧としていることが多いらしい。
 美倻から泰雅が倒れたと聞かされたその日の夕刻、泉水は一人で泰雅の居室を訪れた。 表にも一応、泰雅の居室兼書斎、更に続きの間として寝室がある。もっとも、奥向きで夜を過ごすことの多い泰雅は、滅多に表の寝所で眠ることはない。だが、今回は表で倒れたこともあり、重臣たちは泰雅の身柄を表の寝所に運び、泰雅はそこで療養していた。
 原則として女人は表に脚を踏み入れることはできないが、旗本の屋敷である榊原家では江戸城の表御殿と大奥ほどの厳然とした区別はない。ましてや、良人の突然の病臥を妻たる泉水が見舞うのは当然のことであり、それを止める者はいなかった。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ