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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第37章 花の別れ

 泉水は眠っている泰雅の枕辺にそっと座った。大粒の汗が額に滲んでいる。悪夢でも見ているのか、苦悶に満ちた表情でしきりにうなされていた。
 泉水はわずかに眉をひそめ、苦しげに喘ぐ泰雅を見つめた。枕許に置いてある盥の水に傍らの手ぬぐいを浸し、固く絞る。その手ぬぐいで泰雅の額の汗を丁寧にぬぐってやる。
 と、眠っていたかに見えた泰雅の手がそろりと動き、泉水の手を捉えた。
 泉水は愕いて眼を見開いた。
 泰雅がゆっくりと眼を開き、泉水を見つめた。
「これは夢なのか?」
「夢ではありません」
 泰雅に手を取られたまま、泉水は微笑する。
「随分とうなされておいでにございました。どこか、痛むところやお苦しいところはございませぬか?」
 問えば、泰雅が小さな息を吐いた。
「夢を、見ていた」
「夢―にございますか」
 問い返す泉水に、泰雅は何かを思うような表情でふっと黙り込む。
「そなたがいなくなる夢だ。手を伸ばせば触れられるほど近くにいるのに、俺が幾ら呼んでも叫んでも、泉水は振り向きもせずに去ってゆく。段々そなたが遠くなって、俺は一人になって取り残されてしまう―、そんな夢だった」
 言葉を失った泉水を見、泰雅が笑った。
「済まぬ。聞きたくない話を聞かせてしまった」
「いいえ」
 泉水は小さく首を振る。
 泰雅は泉水の手を放すと、視線をゆるりと動かした。
「済まぬが、障子を開けてくれ」
 長月も半ばを過ぎたとはいえ、日中はまだ残暑が厳しいこの季節である。泉水は立ち上がると、閉(た)て切っていた障子を開けた。
「やはり、お暑うございますか」
 その問いに、泰雅は小さく笑う。
「いや、急に庭が見とうなった」
「さようにございますか」
 泉水は頷き、泰雅にならって視線を庭に向けた。
 縁の向こうにひろがった庭には、やはり桔梗の花が植わっている。そういえば、この屋敷の庭には桔梗の花が至るところに咲いていると、改めて気付いた。

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