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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第37章 花の別れ

「泉水、俺はこの頃、おかしいのだ。以前は死ぬことも少しは怖くなかった。むしろ、死ねば、苦しい恋に懊悩することもなく、すべてが終わると思っていた。だが、今、俺は死ぬのが怖くなっている。そなたが手に入らぬならば、いっそ死を望もうかとすら考えた俺が死にたくないと思うようになった。未練だ、醜い執着だと思うが、この想いはどうにもならぬ。泉水、俺はやはり死ぬのか?」
 泰雅の眼が濡れている。
 泉水は胸を衝かれたような表情で早口に言った。
「死にませぬ、殿は死んだりはなさいませぬ」
「そうか、ならば、せめて次に目覚めるまでは俺の側にいてくれ。そなたがいなくなったら、俺は真に死に神に連れてゆかれそうだ」
 泰雅が訴える。
「判りました。私はずっと、ここに、お側におります。それゆえ、今はどうかご安堵召されて、お寝みあさばされませ」
 そのひと言に安心したのか、泰雅は精も魂も尽き果てたように眼を閉じ、すぐに寝息を立て始めた。泉水の手を掴んだまま、子どものように安らいだ表情を浮かべている。
 泉水は、泰雅の腕をそっと外し、すっかり細くなってしまった手を布団の中に戻した。
 泰雅の寝顔をしばらく黙って見つめた。
 狂おしいまでの愛で泉水を翻弄した男。
 烈しすぎる愛で泉水を支配しようとした男であった。その愛に絡め取られ、がんじがらめにされるのが嫌で、泉水は何度もこの男の側から逃げ出した。その度に、運命は泉水を再びこの男の許へと運んだ。結局、この男との泉水の縁(えにし)は途中で途切れることなく今日まで続いていたのだ。
 だが、今この時、不思議と泰雅への憎しみはなかった。ただ、ただ、この男と我が身を引き合わせた運命の数奇さを思うばかりであった。
 泉水はもう一度、泰雅の寝顔を見る。
 日毎に短くなってゆく秋の陽が泰雅の端整な貌を夕陽の色に染めていた。長い睫が濃い翳を整った面に落としている。やつれ果ててはいても、流石に〝今光源氏〟と謳われただけの美貌であった。
 泉水は込み上げてくる涙を抑えた。
 ふと襖に手をかけた時、視界の片隅を何か蒼いものがひらひらとよぎるのを見た。

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