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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第37章 花の別れ

 泰雅が次に目覚めた時、既に愛しい女の姿は側にはなかった。随分と眠ったように思えたけれど、実際にはたいした刻ではなかったようだ。眠っている間に誰かが来たらしく、枕許の行灯に灯りが入っている。開け放していたはずの障子は元どおり、きっちりと閉められていた。
 寝所の中は薄い闇がひろがっているばかりで、索漠として見えた。広い部屋にたった一人で横たわっていると、周囲の闇が徐々に大きくなって今にも自分をぱっくりと呑み込んでしまうのではないかという恐怖に囚われる。
 泰雅は己れの定命(じようみよう)が今、まさに尽きようとしていることを自覚していた。死への時を営々と刻んでいるといっても良いだろう。
 自分の生命の焔は今、まさに燃え尽きようとしている。
 不思議だった。
―殿はけして死んだりはなさいませぬ。
 あの女がああ言っただけで、泰雅は自分が本当に死なないのではないかと思えてくる。
 侍医に余命を宣告された身でありながら、すべては悪い夢で、自分は死ぬこともなく生き存えるのではないか、そんな儚い希望が生まれてくる。
 昔からそうだった。泉水が可愛らしい貌に大きな瞳をくるくるさせて言えば、その言葉が何でも実現するかのような錯覚に囚われてしまう。恐らく、泰雅はそんな泉水に魅せられてやまなかったのだ。いつも生き生きと輝き、黒い瞳をきらきらさせて眩しいばかりの笑みを浮かべていた女に焦がれて、焦がれて、この想いが叶うならば、何を引き替えにしても良いと思うほど愛した。
 泉水はいつも泰雅にとって憧れであり、希望であった。だが、結局は、その自分のあまりにも深すぎる愛情が、あの女の一生を狂わせ、不幸に陥れることになった。
 泉水には申し訳ないことをしたという想いはある。しかし、たとえ何度生まれ変わったとしても、自分は同じことを繰り返すだろう。
 あの女に恋し、手に入れるようと躍起になるだろう。永遠に手の届かぬ存在だからこそ、余計に欲しいと執着するのは皮肉なものだった。
 その一方で、泉水が幾ら自分を励まそうとしてみたところで、現実には己れの寿命が延びることはないのだとも自覚しているのだ。
 その瞬間(とき)がいつになるのかまでは判らないが、恐らくそれほど先のことではあるまい。

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