テキストサイズ

胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第37章 花の別れ

 泰雅の容態が急変したのは、その夜半のことである。〝殿、ご容態悪化〟の報はすぐに奥向きにももたらされたが、腰元美倻が奥方泉水の寝所の外から声をかけても、何の応(いら)えもない。なおも幾度か呼ばわっても反応がなく、美倻は訝り、無礼を承知で襖を開けた。
 既にその時、奥方の寝所はもぬけの殻であった―。その日の夕刻に表まで泰雅を見舞いに出かけた泉水は、普段どおりに夕餉を済ませ、宵の口には床に入った。美倻は泉水がいつもどおりに夜着に着替え、寝所に入るまでを見届けている。その夜も常のように奥方の寝所から一つ部屋を隔てた控えの間で不寝番を務めていたのだが、泰雅の容態悪化を告げる遣いが表からよこされ、奥向きが俄に騒がしくなった際、ほんの一時だけ持ち場から離れた。
 奥方は、その間にゆく方知れずになったとしか考えられない。榊原家では、ひそかに奥方のゆく方を探したものの、奥方はまたしても雲か霞のように消えてしまった。そして、捜索は嫡子黎次郎の守役脇坂倉之助の命により、ほどなく取り止められた。
 三日後、泰雅はついに一度も意識を取り戻すことなく眠るように息を引き取った。時に、三十一歳であった。
 翌日、榊原家の菩提寺でもある英泉寺でしめやかな中にも盛大に行われた葬儀に、奥方泉水夫人の姿はついに見られなかった。その数日後、正室泉水の方が亡くなった良人泰雅の後を追って自害した―と、榊原家では、その旨、幕府に届け出た。その死が死だけに、泉水の方の葬儀は密葬という形でひっそりと行われ、奥方の死は闇から闇へと葬られ世間に知れることもなかった。
 榊原家の跡目は嫡子黎次郎が名を泰(やす)暁(あき)と改め相続、ただし幼少のため、分家筋の者が黎次郎成人の暁まで後見となり、成人後は黎次郎が正式な当主と認められることになった。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ