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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第37章 花の別れ

 季節は秋から冬とめぐり、江戸に再び春がやって来た。梅の花が江戸のあちこちでほころび始める頃、岡っ引きの勘七は町外れのとある長屋を訪ねた。
 その家の前で、勘七はしばし逡巡を見せた。
 この家には、かつて明らかに武家の出であると思われる若い女が暮らしていた。女は咲き匂う花のような妖艶な美貌であり、堅物で通る勘七さえハッとするほどの色香があった。だが、己れのそのような美しさなぞ微塵も意識はしてはおらぬようで、好もしい控えめさを持った女であったと記憶している。
 女はおせんと名乗っていたが、あれも真の名ではない。秋月兵庫之助という武士と共に暮らしており、二人は内縁関係にあった。その亭主兵庫之助が惨殺されるという事件が起き、勘七は、おせんと知り合うことになった。三十年にわたって公儀(おかみ)から十手を預かってきた勘七は十手持ち特有の勘で、この事件がただの殺しではないと嗅ぎつけた。
 果たして、兵庫之助は、おせんの正式な良人榊原泰雅に闇討ちを仕掛けられたのだ。あろうことか、おせんは、五千石取りの直参旗本の奥方であった。泰雅という良人がありながら、屋敷を出て兵庫之助と共に夫婦同然に暮らしていた。嫉妬に怒り狂った泰雅が兵庫之助を惨殺したのである。勘七はたったの二日で、それだけの事実を突き止めた。
 しかし、おせんには事の次第を話した上で、兵庫之助のことは無念だろうが諦めるようにと因果を含めて説得した。たとえ人殺しであっても、相手が直参では町方の力は到底及ばない。しかも、おせんは亭主持ちの身で勝手に家を出て情人(いろ)と同棲していた。それは即ち不義密通、姦淫の罪であり、事が公になれば、泰雅の行いは妻を寝取った男を成敗したと正当化して認められ、逆におせんが姦婦として罪に問われることになりかねない。
 おせんのことは勘七も気がかりで、その後、何日かして様子を見に訪ねたのだが、その時、既に、おせんは、この長屋にはいなかった。一体、どこに行ったものか―。あれほど早まったことはするなと言い聞かせたのにと、勘七は娘のような歳のこの女のことを何故か、ずっと案じ続けていた。おせんが姿を消した後も何度かは訪ねてみたものの、ずっと空き家になっていたゆえ、それきり訪ねることもなかった。

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