胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第37章 花の別れ
今日、ふと思い立って訪ねてみる気になったが、どうせ、あの女が戻っているはずもない。勘七が幼い頃に亡くした娘が生きていれば、おせんと同じほどの歳であった。恐らく勘七が妙におせんのことが気になるのも、亡くした娘を思い出すからに相違ない。
勘七が吐息を吐いて踵を返そうとしたまさにその時、眼の前の腰高障子がガラリと音を立てて開いた。
勘七は小さな眼を瞠った。岡っ引き稼業は三十年になるが、これほど愕いたことはない。
「おせんさん、お前さん―、一体、今までどこでどうしていたのかえ」
あの美貌の女、おせんもまた眼を丸くして勘七を見つめていた。
「親分さん、あのときは本当に色々とお世話になり、ありがとうございました」
しばらくは愕きを隠せなかった様子のおせんだが、やがて、花のような微笑を浮かべた。
「私、去年の十月には、もうここに戻ってきてたんですよ。結局、この長屋しか行くところはないですから。それに、ここは、うちの人と過ごした想い出の場所ですしね」
おせんは以前の彼女とは別人のように晴れやかな表情を見せて笑った。
勘七は、久しぶりに逢うおせんをよくよく見て、二度愕くことになる。何と、おせんの腹は大きく膨らんでいたのだ。この膨らみ様では、誰が見ても懐妊している―しかも既に七月(ななつき)にはなっていることは明らかだった。
「おせんさん、身ごもってるのか」
流石に誰の子だとは訊けなかった。腹の子の育ち具合から考えても、亡くなった秋月兵庫之助の子だと考えるのが順当なように思えた。恐らくは、兵庫之助が殺害される直前、身ごもったのだろう。そう考えれば、話のつじつまは合うはずだ。
流石に凄腕と評判の老練な岡っ引きも、よもやおせんと兵庫之助の間に何もなかった―浄い仲であったとは想像もできなかったのだ。おせんの腹の子が今は亡き榊原泰雅の子であると見抜けなかったのも無理はない。
「お前さんの元気な姿を見て、やっと安心しやしたよ。達者でやっているのなら、それで良いんだ。一人で赤ン坊を生んで育てるのは大変だろうが、亡くなった旦那の分まで気張って育ててやって下せえ。あっしも及ばずながら、力になりやすから」
勘七はそう言って、しばらく話した後、おせんの許を辞した。
勘七が吐息を吐いて踵を返そうとしたまさにその時、眼の前の腰高障子がガラリと音を立てて開いた。
勘七は小さな眼を瞠った。岡っ引き稼業は三十年になるが、これほど愕いたことはない。
「おせんさん、お前さん―、一体、今までどこでどうしていたのかえ」
あの美貌の女、おせんもまた眼を丸くして勘七を見つめていた。
「親分さん、あのときは本当に色々とお世話になり、ありがとうございました」
しばらくは愕きを隠せなかった様子のおせんだが、やがて、花のような微笑を浮かべた。
「私、去年の十月には、もうここに戻ってきてたんですよ。結局、この長屋しか行くところはないですから。それに、ここは、うちの人と過ごした想い出の場所ですしね」
おせんは以前の彼女とは別人のように晴れやかな表情を見せて笑った。
勘七は、久しぶりに逢うおせんをよくよく見て、二度愕くことになる。何と、おせんの腹は大きく膨らんでいたのだ。この膨らみ様では、誰が見ても懐妊している―しかも既に七月(ななつき)にはなっていることは明らかだった。
「おせんさん、身ごもってるのか」
流石に誰の子だとは訊けなかった。腹の子の育ち具合から考えても、亡くなった秋月兵庫之助の子だと考えるのが順当なように思えた。恐らくは、兵庫之助が殺害される直前、身ごもったのだろう。そう考えれば、話のつじつまは合うはずだ。
流石に凄腕と評判の老練な岡っ引きも、よもやおせんと兵庫之助の間に何もなかった―浄い仲であったとは想像もできなかったのだ。おせんの腹の子が今は亡き榊原泰雅の子であると見抜けなかったのも無理はない。
「お前さんの元気な姿を見て、やっと安心しやしたよ。達者でやっているのなら、それで良いんだ。一人で赤ン坊を生んで育てるのは大変だろうが、亡くなった旦那の分まで気張って育ててやって下せえ。あっしも及ばずながら、力になりやすから」
勘七はそう言って、しばらく話した後、おせんの許を辞した。