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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第1章 《槇野のお転婆姫》

 こうして、勘定奉行槇野源太夫の息女泉水は、今年の春まだ浅い日、榊原家に輿入れした。泉水は十七歳になっていた。
 如月の半ばのこと、華燭が盛大に榊原家の屋敷の大広間で行われ、泉水は榊原泰雅の奥方となった。しかし、その夜に泰雅は花婿の席にはついたものの、その後、肝心の寝所に現れることはなかった。つまり、その事実から導き出される応えは、泉水は新婚初夜から良人に捨て置かれた妻となってしまったということであった。
 婚儀の夜、金屏風の前に居並んだ新郎新婦は眼が覚めるように美しく似合いの夫婦雛であった。殊に泰雅はかねてからの噂に違わず、“今光源氏”と異名を取るほどの美男ぶりだった。年明けて十七になったばかりの花嫁は初々しく可憐で、幸菱を織り出した白綾の綿帽子や白無垢をまとった様は人形のようだ。
 が、目深に綿帽子を被った泉水には、今宵より良人となるひとの面立ちは判らないままであった。泰雅の訪れがなかったのは祝言の夜だけではなく、その翌日もまたその次の夜も同じことが続いた。それは新婚の良人が新妻に対して取るには許されざる所業ではあったが、泉水は端から諦めの心境だった。
 恐らく、良人となった泰雅自身も泉水と同じだったのではないか、つまり、泉水が父のためにこの縁組を承服したように、泰雅もまた“お家の事情”とやらのために仕方なく縁組を受け容れたのではないかと考えのだ。そう考えてゆけば、すべては合点がゆく。物の怪憑きで、おまけにじゃじゃ馬とまでいわくのつく姫を嫁に欲しがる男なぞ、これまでどこにもいなかったのだ。
 それは別に泉水自身に何の問題も罪もあるわけではなかったけれど、たまたま初めの婚約者が早世したばかりに、そのような忌まわしい噂が立ってしまった。一方、榊原泰雅という男もまた女にはモテるし人気はあるものの、いざ結婚相手となると二の足を踏まれる相手だ。泰雅の妻になりたがる女は多いが、肝心の親がそのような多情な男に大切な娘をやりたくはないと思うのは道理だ。
 現に名門榊原家の当主たる者が二十五になるまで独り身でいたというのは、面妖といえば面妖だろう。当人は気楽な独身生活を謳歌していたのだろうけれど―。とにもかくにも、そんなところに、槇野家との縁組が急浮上し、泰雅自身もこれが潮時と思ったのではないか。

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