胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第1章 《槇野のお転婆姫》
上さまお声かがりの話を無下に辞退して、ご不興を買うのは得策ではなし、しかも、相手の姫は今をときめく勘定奉行槇野源太夫の息女である。もっとも、何かといわくつきの姫ではあるが、泰雅本人についての風評を考えれば、どちらもどちらといったところだろう。まだまだ気楽な独身生活に未練を残しつつも、泰雅は泰雅なりにこの婚姻が自分や榊原の家にもたらす効用を計算したに相違ない。上さまのお憶えめでたい槇野源太夫の娘を娶ることはけして泰雅の将来にとって悪くはない、むしろ良いはずだ。
榊原泰雅とは、なかなか切れ者だという。稀代の女好きという話を聞く限りでは、ただへらへらとした、にやけた優男といったところしか想像できないが、大方はその仮面の下に計算高い怜悧な一面を隠し持っているのだろう。泉水には、泰雅の考えていることが何とはなしに判るような気がした。
つまり、二人ともがこの結婚に最初から甘い期待も夢も片片たりとも抱いてはいなかったわけだ。十七の娘としてはいささか哀しい気もするけれど、それは所詮甘い感傷というものだろう。婚姻、殊に高位の武家ともなれば、このような政略的な結婚は特に珍しくはないのだ。家と家のためには当人同士の気持ちや思惑なぞ取るに足らないものだ。
婚姻により、家と家の結びつきがより強固なものとなり、互いに良い目を見られる。それが、当時の大名家を初めとする武家の結婚の現実であった。その中で良人は幾人もの侍妾を持つのが不文律である。正室が単なる飾り物にすぎないのは、最初から判り切ったことであった。
泉水が良人に見向きもされぬまま、日は徒(いたずら)に過ぎていった。当の泉水はそのことに落胆もしていなければ、気鬱にもなっていないのだけれど、乳母の時橋は心底から姫さまのおんゆく末を憂えている。
確かに新婚初夜から泰雅のお渡りは一度としてなく、それは何も夜だけとは限らず、昼間も同じことである。泉水は榊原家では完全に忘れ去られた妻であった。婚儀から数えてはやひと月、時橋はとうとう降り積もる鬱積を抑え切れず、槇野源太夫に事の次第を事細かに書き送るとまで言い出した。本来なら、泉水をめぐる現状はもっと早くに実家に報告されるべきものだが、当の泉水が時橋に口止めしていたのだ。
榊原泰雅とは、なかなか切れ者だという。稀代の女好きという話を聞く限りでは、ただへらへらとした、にやけた優男といったところしか想像できないが、大方はその仮面の下に計算高い怜悧な一面を隠し持っているのだろう。泉水には、泰雅の考えていることが何とはなしに判るような気がした。
つまり、二人ともがこの結婚に最初から甘い期待も夢も片片たりとも抱いてはいなかったわけだ。十七の娘としてはいささか哀しい気もするけれど、それは所詮甘い感傷というものだろう。婚姻、殊に高位の武家ともなれば、このような政略的な結婚は特に珍しくはないのだ。家と家のためには当人同士の気持ちや思惑なぞ取るに足らないものだ。
婚姻により、家と家の結びつきがより強固なものとなり、互いに良い目を見られる。それが、当時の大名家を初めとする武家の結婚の現実であった。その中で良人は幾人もの侍妾を持つのが不文律である。正室が単なる飾り物にすぎないのは、最初から判り切ったことであった。
泉水が良人に見向きもされぬまま、日は徒(いたずら)に過ぎていった。当の泉水はそのことに落胆もしていなければ、気鬱にもなっていないのだけれど、乳母の時橋は心底から姫さまのおんゆく末を憂えている。
確かに新婚初夜から泰雅のお渡りは一度としてなく、それは何も夜だけとは限らず、昼間も同じことである。泉水は榊原家では完全に忘れ去られた妻であった。婚儀から数えてはやひと月、時橋はとうとう降り積もる鬱積を抑え切れず、槇野源太夫に事の次第を事細かに書き送るとまで言い出した。本来なら、泉水をめぐる現状はもっと早くに実家に報告されるべきものだが、当の泉水が時橋に口止めしていたのだ。