胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第5章 《謎の女》
榊原家に先代当主の代より仕えてきた重臣たちにとって、槙野源太夫の息女と泰雅が仲睦まじいのは歓ぶべきではあったが、かといって、泰雅が日々のお勤めに支障をきちたすほど奥方に骨抜きにされてしまっては困るのである。
坂井家は代々、槇野家に仕えてきた重臣の家柄であり、琢馬は齢五十になろうするが、気骨のある、まさに戦国武将のような気質の男であった。
学問や政治よりも武芸一辺倒の無骨者で、たいした活躍もしなかった。
ー坂井の爺は生まれる時代を間違えたのやもしれぬの。
泉水がよくそう言って、からかったものだ。
確かに、坂井のような武辺者にとって今の世は生きにくい時代ではないだろうか。今は天下太平で戦なぞとはおよそ無縁、坂井のようにいくら槍や剣の腕が立っても、何の役にも立たない。上から下まで身分制度がかっちりと整えられていて、人は生まれながらにその所属する世界や立場でしか生きられず、一生、家や身分に拘束される。
坂井のような男は世が世ならば、一国一城の主にもなり得ていただろう。今の世は武芸だけで身を立てることなど、およそ夢のまた夢である。平和なご時世には、槍や刀は必要なく、ただ物騒な代物なだけ、武士は真似事程度に武芸をたしなみ、自分の生命が守れるほどに剣が使えれば良い。泉水の父源太夫のような能吏が頭角を現すのも、今が太平の世だからだ。源太夫はけして柔弱ではない。武芸もひととおりはできる。だが、どちらかといえば、剣を使うよりは頭を使う方が向いているだろう。
そういう意味で、泉水の言葉はあながち間違ってはいない。殊に、いかにも頑固一徹なその気性を表すかのように、への字に結ばれた琢馬の口許を見ていると、泉水はつい琢馬と自分を重ねてしまうのだ。
頭を使うよりは剣や槍を持つ方が性に合うのは泉水も同じこと。大身旗本の奥方として座敷に置物のか人形のように座っているより、町中に出て市井の雑踏の中に身を置いていた方がよほど生きているという実感がある。
それでも、琢馬はまだ我が身よりは幸せだと思う。泉水は幼い頃から、なにゆえ、自分が男に生まれなかったのかと口惜しく思ったものだった。
坂井家は代々、槇野家に仕えてきた重臣の家柄であり、琢馬は齢五十になろうするが、気骨のある、まさに戦国武将のような気質の男であった。
学問や政治よりも武芸一辺倒の無骨者で、たいした活躍もしなかった。
ー坂井の爺は生まれる時代を間違えたのやもしれぬの。
泉水がよくそう言って、からかったものだ。
確かに、坂井のような武辺者にとって今の世は生きにくい時代ではないだろうか。今は天下太平で戦なぞとはおよそ無縁、坂井のようにいくら槍や剣の腕が立っても、何の役にも立たない。上から下まで身分制度がかっちりと整えられていて、人は生まれながらにその所属する世界や立場でしか生きられず、一生、家や身分に拘束される。
坂井のような男は世が世ならば、一国一城の主にもなり得ていただろう。今の世は武芸だけで身を立てることなど、およそ夢のまた夢である。平和なご時世には、槍や刀は必要なく、ただ物騒な代物なだけ、武士は真似事程度に武芸をたしなみ、自分の生命が守れるほどに剣が使えれば良い。泉水の父源太夫のような能吏が頭角を現すのも、今が太平の世だからだ。源太夫はけして柔弱ではない。武芸もひととおりはできる。だが、どちらかといえば、剣を使うよりは頭を使う方が向いているだろう。
そういう意味で、泉水の言葉はあながち間違ってはいない。殊に、いかにも頑固一徹なその気性を表すかのように、への字に結ばれた琢馬の口許を見ていると、泉水はつい琢馬と自分を重ねてしまうのだ。
頭を使うよりは剣や槍を持つ方が性に合うのは泉水も同じこと。大身旗本の奥方として座敷に置物のか人形のように座っているより、町中に出て市井の雑踏の中に身を置いていた方がよほど生きているという実感がある。
それでも、琢馬はまだ我が身よりは幸せだと思う。泉水は幼い頃から、なにゆえ、自分が男に生まれなかったのかと口惜しく思ったものだった。