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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第5章 《謎の女》

 それは、漸く父親となり得た泰雅だとて同じ、いや、それ以上であろう。初めての子を腕に抱いた時、泰雅はどのような顔をしたのだろう。少し面映ゆいような、照れたような、込み上げてくる嬉しさを隠しきれぬ顔、危なげな手つきで不器用に生まれたての赤子を抱く泰雅、その傍らでまだ産褥にある女は誇らしげに微笑んでいる―。
 見たこともない光景があたかも今、眼前で繰り広げられているかのように見える。
「琢馬、よう知らせてくれた。時橋、私からも何か祝いの品を贈らねばなるまいが、私にはそのようなもの、何を贈れば良いか、とんと判らぬ。済まぬが、適当な品を見繕い、私の名で届けておいて欲しい」
 人は本当に哀しい時、涙さえも出ないのだと、この時、泉水は初めて知った。生まれた子が姫であろうが若であろうが、そんなことはどうでも良かった。
 泰雅に子が誕生した、ただその事実だけでもう十分だ。これでもう、泰雅は自分には遠く隔てられた存在となった。これほどまでに手酷い裏切りを突きつけられた今、最早、泰雅とこれまでのように何もなかったかのように向き合うことはできない。
 たとえ、嫉妬をひた隠し何食わぬ顔で微笑むのが武家の妻のたしなみや習いだといわれても、泉水には到底できそうにもなかった。
 これから自分はどうしたら良い?
 いっそのこと、恥も外聞も捨てて、槙野の家に戻ろうか。それとも、ここで一生、皆から忘れ去られた飾り物の妻として無益な日々を過ごすべきなのか。
 泉水の心は千々に乱れた。
 だが、泰雅への想いは、これほどまでに裏切られた今でも、消えることのない男への想いはどうしたら良い―?
 この行き場のない想いは、どこに捨ててくれば良いのだろう。
 そこまで考えた時、泉水はフウと意識が遠のくのを憶えた。
「姫さまっ、姫さまっ?」
―時橋ったら、あんなに慌てて。また“姫さま”と呼んでいる。でも、本当は私は、“お方さま”などと呼ばれるより、“姫さま”と呼ばれたい。槙野の、父上の娘でいた頃のように、泰雅さまも何も知らなかった頃に帰りたい―。
 泉水はそんなことを考えながら、ゆっくりと暗い闇に沈んでいった。

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