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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第6章 誤解

 泉水は泣きながら寝室を出た。
「泉水!」
 後ろから泰雅の呼ぶ声が追いかけてきたけれど、後ろを振り向くこともなく走った。
 どこをどう走ったのかも、どうして屋敷を抜けだしたのかも判らない。
 気が付いたときには、町外れの和泉橋のたもとに立ち尽くしていた。

 泉水はしばらくその場に佇んで、暗い川面を見つめていた。陽はとうに落ちて、辺りはぬばたまの闇の底に沈んでいる。漆黒の空に、新月が頼りなげに浮かび、わずかな星がまたたいていた。
 今は花が咲いてはおらぬ桜の樹が緑の葉をたっぷりと茂らせ、その影が黒々と川面に映じている。泉水は小さな吐息を零し、歩き始めた。どこといってゆく当てもない。今ほど我が身が寄る辺なき身だと感じたことは、かつてなかった。
 泉水は小さく首を振る。自分が帰れる場所は、やはり槙野の屋敷しかない。父には怒られることは判り切っていたけれど、いかにしても泰雅の許に戻る気にはなれなかった。
 しばらく歩いたところで、泉水は後ろからひたひたと付いてくる足音を感じ取った。闇の底に不気味に響く足音は、まるで黄泉路からの使者のそれのようだ。泉水の全身を緊張が稲妻のように駆け抜けた。
 泉水は自然と速足になった。しまいには歩くというよりは走るといった感じになった。だが、小走りになった途端、後ろからぴったりと張り付いてくる黒い影も速度を増している。泉水はまるで抜き身の剣を背筋にぴたりと当てられているような恐怖を憶えずにはいられない。
 恐怖のあまり、身体が石になったように強ばり、思うように手脚が動かせない。と、突如として、背後の暗闇からぬっと手が伸びてきて、右腕を掴まれた。ひっと短い悲鳴を上げ、泉水は闇雲に走って逃げようとする。
「おい、待ちな」
 泉水は抗うのを止めた。この声、どこかで聞いたことがあるような気がする。
 記憶を手繰り寄せようとしたけれど、なかなか思い出せず小首を傾げた。
 恐る恐る振り返ると、泉水はまた小さな声を上げた。
「あなたは―」

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