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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第7章 溶けてゆく心

 罪を憎んで人を憎まずー、それが源太夫の信条ではあったけれど、現実としてはそんな綺麗事だけでは片づかないのが人の世であった。人と人が拘われば、好悪の感情が生まれ、利害関係が生じる。妬み、憎しみ、様々な負の感情が交差し、やがて殺しや盗みが起こる。
 それを裁くのが奉行の務めであったが、一体、何を基準にして人が人を裁くのか。同じ殺しにしても、その事件の背景はそれぞれ異なり、やむなく人を殺めるしかなかった哀れな者もいれば、ただ己れの私利私欲だけで殺人に走った輩もいる。だが、たとえ、よんどろこなき事情があって罪を犯したにせよ、咎人を死罪にしなければならないこともあるのだ。
 町奉行在職中は、“仏の源さん”と江戸っ子からは情も理も備えた慈悲深い名奉行として慕われた。だが、ある意味、非情でなければ、奉行は務まらない。
 あまたの人を見、あらゆる事件を裁いて、源太夫が得たのは、この世には浄土と地獄が背中合わせに存在する―ということであった。ささやかな幸せの中で暮らしていた人間がいっときの誘惑に惑わされ、奈落の底に落ちる。人は一度罪を犯すと、止まらなくなる。罪を犯す快感にいつしかがんじ絡めになり、囚われ、浸りきる。
 たった一瞬、魔に魅入られたせいで、人生を大きく踏み外した男たち、あるいは女たちを源太夫は見てきた。その中の大勢を獄門台に送った。
 そんな源太夫の眼から見れば、娘の泉水にしろ、婿の泰雅にしろ、まだまだ若い。泰雅はなかなか見どころのある男で、頭の回転も悪くはない。しかし、女狂いとまで評されるほどの遊び人でもあり、娘の生涯を託すには、いささか不安のある男であった。
 その男が両手をついて深々と頭を垂れ、泉水を生涯大切にすると誓った。あの真摯な眼には、嘘は微塵も含まれてはいなかった。泰雅本来の人柄を表すかのように、澄んでさえいたのだ。
 榊原泰雅という男は、今一つ計りかねるところがあるのは確かだ。何を考えているのか判らぬ、そんな得体の知れぬ危うさを持っている。もしかしたら、女に現を抜かし、かりそめの恋に生きているように見えるのは、ほんの見せかけにすぎないのではないか―と思うときがある。

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