
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第7章 溶けてゆく心
雨が、降っている。
まるで女人の吐息を束にしてより上げたような繊細な雨。まるで泉水の心の奥にまで振り込み、しっとりと濡らすような雨だ。
泉水は槙野家の小座敷にいた。ここは表と奥の境にあり、来客用の部屋として使われている。既に一刻ほど前、泉水の良人榊原泰雅が到着、父源太夫と二人、一刻余り男同士の話をじっくりと腰を据えてしたようだ。舅と婿の親密な対談は父の私的な部屋―朝方、泉水と父が水入らずで話した居間で行われた。その間、泉水は別室に控えていた。
そして、父との話を終えた後、源太夫は席を外し、泉水は客間で泰雅と二人、話をすることになっていた。今、泉水は泰雅を待っているところだ。午前中はいかにも梅雨空といった風情の曇り空がひろがっていたが、正午を回ってからは雨雫が落ち始めた。
初夏とあって、庭に面した障子はすべて開け放たれ、小さいながらも整えられた庭が見渡せる。庭を埋め尽くした色とりどりの紫陽花が細い雨に打たれていた。槙野邸の紫陽花は実に様々な色の花が混じり合っている。濃い紫もあれば、淡い蒼もあり、ほのかな淡紅色のものもあるといった塩梅だ。眼にも彩なとりどりの花が寄り添って咲いている様は、まるで精巧な七宝焼細工を見ているようでもある。丹精込めて作り上げられた七宝焼の花が雨の雫に濡れている。
灰色に塗り込められた庭の中で、花のある場所だけが眩しい。泉水は眼を細めて、雨に濡れる花を見つめた。
「泉水」
降りしきる雨の音に、深みのある声が静かに響く。
泉水はゆっくりと振り向いた。
突如として眼の前に差し出されたのは、一輪の紫陽花であった。榊原の屋敷の中庭に咲いている紫陽花に違いない。かすかに色づいた慎ましやかな蒼色に見憶えがある。
無造作に花を突きだしたまま、泰雅はいつになく憮然とした顔で立っていた。
「泉水が気に入っていると河島より聞いていたのでな。持ってきた」
ぶっきらぼうにも思える口調で言い、泰雅はその場に胡座を組んだ。いつも屈託ない泰雅には似合わぬ不機嫌な様子に、泉水の心は沈んだ。
―殿は、やはりお怒りになられているのだ。
まるで女人の吐息を束にしてより上げたような繊細な雨。まるで泉水の心の奥にまで振り込み、しっとりと濡らすような雨だ。
泉水は槙野家の小座敷にいた。ここは表と奥の境にあり、来客用の部屋として使われている。既に一刻ほど前、泉水の良人榊原泰雅が到着、父源太夫と二人、一刻余り男同士の話をじっくりと腰を据えてしたようだ。舅と婿の親密な対談は父の私的な部屋―朝方、泉水と父が水入らずで話した居間で行われた。その間、泉水は別室に控えていた。
そして、父との話を終えた後、源太夫は席を外し、泉水は客間で泰雅と二人、話をすることになっていた。今、泉水は泰雅を待っているところだ。午前中はいかにも梅雨空といった風情の曇り空がひろがっていたが、正午を回ってからは雨雫が落ち始めた。
初夏とあって、庭に面した障子はすべて開け放たれ、小さいながらも整えられた庭が見渡せる。庭を埋め尽くした色とりどりの紫陽花が細い雨に打たれていた。槙野邸の紫陽花は実に様々な色の花が混じり合っている。濃い紫もあれば、淡い蒼もあり、ほのかな淡紅色のものもあるといった塩梅だ。眼にも彩なとりどりの花が寄り添って咲いている様は、まるで精巧な七宝焼細工を見ているようでもある。丹精込めて作り上げられた七宝焼の花が雨の雫に濡れている。
灰色に塗り込められた庭の中で、花のある場所だけが眩しい。泉水は眼を細めて、雨に濡れる花を見つめた。
「泉水」
降りしきる雨の音に、深みのある声が静かに響く。
泉水はゆっくりと振り向いた。
突如として眼の前に差し出されたのは、一輪の紫陽花であった。榊原の屋敷の中庭に咲いている紫陽花に違いない。かすかに色づいた慎ましやかな蒼色に見憶えがある。
無造作に花を突きだしたまま、泰雅はいつになく憮然とした顔で立っていた。
「泉水が気に入っていると河島より聞いていたのでな。持ってきた」
ぶっきらぼうにも思える口調で言い、泰雅はその場に胡座を組んだ。いつも屈託ない泰雅には似合わぬ不機嫌な様子に、泉水の心は沈んだ。
―殿は、やはりお怒りになられているのだ。
