
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第7章 溶けてゆく心
無理もなかった。たとえ、そこにいかなる理由があるにせよ、泉水は良人に無断で屋敷を飛び出して、実家に帰ってきたのだ。殊に榊原家ほどの大身旗本の奥方として取るべき態度ではない。
静かな刻が流れた。
泰雅は何を言うでもなく、庭に視線を投げている。泉水は所在なさげに泰雅と庭を交互に見ていた。
と、泰雅が庭を見つめたままフッと笑った。
良人の意外な反応に、泉水は戸惑いまじまじと見つめる。
泰雅がゆるりと視線を動かした。
「敵わねえな。いつも何かあったら、すぐに家出しちまうんだからな」
「―申し訳ございませぬ」
消え入りそうな声で言うと、泰雅がまた笑った。
「似合わねえな、泉水がそんな殊勝な顔をしてたら、雨じゃなくて紅い雪が降るぜ」
「酷い、何もそこまで仰せにならなくても」
泉水が頬を膨らませると、泰雅は声を立てて笑った。乳母の時橋が見れば、また子どもじみていると怒りそうだけれど、泰雅はさも愉快げな顔で笑っている。
「そうそう、お転婆姫はそうでなくちゃな」
揶揄するように言い、人差し指で泉水の頬を軽くつついた。
「泉水は義父上のような男が理想なのか?」
唐突に問われ、泉水は眼を見開いた。
「義父上はたいしたお方だ。政治家としてのみではなく、人間としての器も度量も大きく広い。あれほどのお方はなかなか出るまい。
到底俺なんか足許にも及ばぬほどの傑出したお方だな。あのような男を物心ついたときから間近で見て育ってきた泉水には、俺はさぞちっぽけで、つまらねえ男に見えるだろう」
泰雅の口調には自嘲めいた響きがある。その言葉に、泉水は思わず叫んでいた。
「そのようなことはございませぬ。私は、泉水は、殿もすばらしい方だと思うております。それは―殿の御事を色々と申す者もおりますが、以前、旗本奴に絡まれていた人たちをお助けになられました。私は、殿が真はお心の優しい、男気のあるお方と思うておりまする」
「優しい、男気のある男か。泉水、それは、お前の買いかぶり過ぎだ。俺はそんなたいした男ではない。世の人々が申すとおり、女好きの遊び人、その日その日を面白おかしく暮らすことしか、頭にねえ空っぽなつまらねえ野郎さ」
その自棄のような物言いに、泉水は哀しくなる。
静かな刻が流れた。
泰雅は何を言うでもなく、庭に視線を投げている。泉水は所在なさげに泰雅と庭を交互に見ていた。
と、泰雅が庭を見つめたままフッと笑った。
良人の意外な反応に、泉水は戸惑いまじまじと見つめる。
泰雅がゆるりと視線を動かした。
「敵わねえな。いつも何かあったら、すぐに家出しちまうんだからな」
「―申し訳ございませぬ」
消え入りそうな声で言うと、泰雅がまた笑った。
「似合わねえな、泉水がそんな殊勝な顔をしてたら、雨じゃなくて紅い雪が降るぜ」
「酷い、何もそこまで仰せにならなくても」
泉水が頬を膨らませると、泰雅は声を立てて笑った。乳母の時橋が見れば、また子どもじみていると怒りそうだけれど、泰雅はさも愉快げな顔で笑っている。
「そうそう、お転婆姫はそうでなくちゃな」
揶揄するように言い、人差し指で泉水の頬を軽くつついた。
「泉水は義父上のような男が理想なのか?」
唐突に問われ、泉水は眼を見開いた。
「義父上はたいしたお方だ。政治家としてのみではなく、人間としての器も度量も大きく広い。あれほどのお方はなかなか出るまい。
到底俺なんか足許にも及ばぬほどの傑出したお方だな。あのような男を物心ついたときから間近で見て育ってきた泉水には、俺はさぞちっぽけで、つまらねえ男に見えるだろう」
泰雅の口調には自嘲めいた響きがある。その言葉に、泉水は思わず叫んでいた。
「そのようなことはございませぬ。私は、泉水は、殿もすばらしい方だと思うております。それは―殿の御事を色々と申す者もおりますが、以前、旗本奴に絡まれていた人たちをお助けになられました。私は、殿が真はお心の優しい、男気のあるお方と思うておりまする」
「優しい、男気のある男か。泉水、それは、お前の買いかぶり過ぎだ。俺はそんなたいした男ではない。世の人々が申すとおり、女好きの遊び人、その日その日を面白おかしく暮らすことしか、頭にねえ空っぽなつまらねえ野郎さ」
その自棄のような物言いに、泉水は哀しくなる。
