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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第7章 溶けてゆく心

 泰雅が心底済まなさそうに言うのに、泉水は笑って首を振った。
「それで、お子は無事に生まれたのでございますね」
 念を押すように言うと、泰雅は頷いた。
「ああ、三日前の夜、無事に生まれた。女の子だそうだ」
 ああ、やはりと思う。三日前といえば、泰雅が急に出かけていった夜だ。あの日、おそのは産気づき、女児を産み落としたのだろう。
「しかし、酷え話だ。その松吉ってえ男は、おそのが手前の子を孕んでいると知った上で、おそのを捨てた。しかも、おそのが男の裏切りを知ったのは、松吉が呉服問屋の娘と祝言を挙げて半年も経ったときのことだったらしい。その間中、松吉は、おそのと女房と二股かけてやがったんだ。おそのは可哀想に、松吉とはいつか晴れて所帯を持てる、親子三人で暮らせるとその日を愉しみにしていたっていうのによ」
 おそのが松吉に裏切られたのだと知った時、腹の子は既に産み月に入っていた。そのときのおそのの気持ちを思うと、泉水は同じ女として居たたまれない想いになる。
 おそのは心底から松吉という男を信じていた。惚れた男の子を身ごもり、いつか男と夫婦となり親子三人で暮らすのを心待ちにしていた。日々を精一杯生き、ささやかな幸せを手に入れようとしていた女の夢を、松吉は無情にも奪い、砕いた。
 そんな人間がこの世にはいるのだ。人を傷つけ、死ぬほど追い詰めた人間が平気な顔でお天道さまの下を歩いている。
 やむない事情があって人を殺めた人が罪人になっても、おそのを追い詰めた松吉のような男のふるまいは罪にはならない。
 法で裁くことのできない罪は罪とは呼べず、法の網の目をかいくぐり、悪人が善人面をして我が物顔で平然と生きてゆく。それが、天下のご政道なのだろうか。
 人の心は変わりゆく。心変わりを責めることはできないけれど、せめて人としての最低限の思いやりだけは忘れたくないと思う。
 そんな風に思うのは、泉水が所詮は世間知らず、苦労知らずで育った娘だからだろうか。
「けど、参ったな。まさか、おそのが俺の女で、おそのの生んだ子が俺の子なんてことになってるとは想像もしてなかった。俺がいくら違うんだって言っても、お前はまるで聞く耳を持たねえしさ。本気で焦ったぜ」
 泰雅に睨まれ、泉水の頬に紅が散った。
「ごめんなさい」
 泰雅が肩をすくめる。

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