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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第7章 溶けてゆく心

「まァ、これまでがこれまでだからな、あらぬ誤解を受けても文句は言えねえところもあるんだが。流石にどこを探しても、俺に子どもなんざァ、いやしねえから、それだけは安心してて良いぞ。俺を信じてくれてるっていうんなら、こっちの方もこれからは信じてくれるとありがてえんだがな、泉水」
 最後の科白は満更冗談でもない様子に、泉水の顔に散った紅が更にひろがる。
 泰雅の話では、おそのは来月には川越の従兄を頼って、子どもを連れて江戸に発つことになっているという。おそのという女に逢うことはないけれど、その女と子どものこれからの幸せをひそかに祈らずにはおれない泉水であった。
 泉水がぼんやりとそんなことを考えていると、泰雅がふと呟いた。
「ここの紫陽花もきれいだな」
 泰雅の視線は庭の紫陽花に向けられている。いつしか雨は止んでいたようだ。
「はい、でも私はここの紫陽花も良いけれど、榊原のお屋敷のお庭の紫陽花の方がいっとう好きです」
 そう言って微笑んで振り仰いだ眼に、蒼空にかかった虹の橋が映じた。
 梅雨の狭間の空に、薄陽が雲間からわずかに射している。陽の光を受けて、露をのせた花や緑の葉が七宝細工のように煌めく。
 泉水には、榊原の屋敷の中庭で咲く紫陽花の花が見えるようであった。あの紫陽花たちも恵みの雨に打たれ、またその色を一段と鮮やかに深めていることだろう。晴れ渡った空のように深い蒼色の花群らがさぞや際立っているに違いない。
 早く、あの紫陽花を見たいと思った。
 自分の生きてゆく場所は、最早ここではない。泰雅のいる場所、榊原の家こそが泉水の本来あるべき場所なのだ。
 そっとうつむくと、泰雅がくれた一輪の紫陽花が膝の上に乗っている。胸のすくような、すっきりとした蒼が嬉し涙に滲んだ。
                                    ( 第2話はここで終わり、明日から第3話に入ります。ありがとうございました☆)

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