胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第8章 予期せぬ災難
《予期せぬ災難》
頭上から降り注ぐ陽差しがうなじを灼くようで、泉水は思わず空を振り仰ぐ。額から流れ落ちた汗の玉がうなじを伝い、背筋まで流れてゆくのに顔をしかめ、盛大な溜息を洩らした。ねっとりとした周囲の大気が膚にまとわりつくようだ。風一つない油照りに、眼前の川の面もひっそりと静まり返り、夏の陽差しに鈍い光を放つのみであった。
泉水は和泉橋と呼ばれる小さな橋を渡り、賑やかな町へと脚を踏み入れる。名もない川にかかる橋一つを境に、上手は閑静な武家屋敷が並ぶ和泉橋町、下手はその名のとおり、名だたる大店が軒を連ねる活気溢れる商人の町、町人町だ。泉水の良人榊原泰雅の住まいである屋敷もこの一角にある。
泰雅は五千石取りの直参旗本であり、歳は二十五、稀代の女好きだが、なかなかの切れ者と評判だ。もっとも、勘定奉行槙野源太夫の息女泉水を娶ってからというもの、その女狂いもひっそりと鳴りを潜め、泰雅は妻一人を守るという以前の彼からはおよそ考えられぬ日々を過ごしている。
泉水は今、その町人町の中でもひときわ人通りの多い往来を歩いていた。錚錚たる大店がひしめくこの大通りは、呉服太物問屋、小間物問屋を初め、女性の興味を惹く品を扱う店も多い。泉水はとある小間物屋の前でふと脚を止めた。季節外れのものではあるけれど、店先に並んでいる品々の中の一つの眼が止まった。比較的安価なものばかりが並んでいる中から、玉かんざしを手に取ってみる。
そっと振ると、耳許でしゃらしゃらと涼やかな音が響く。素材は黄楊、上部には数個の桜の花が群れ咲いている様子をかたどっており、下方に玉がついている。地味ではあるけれど、なかなか愛らしい簪だ。
嫁ぐ前は〝槙野のお転婆姫〟などとありがた迷惑なあだ名で呼ばれていた泉水、屋敷の奥で座っているよりは庭で木刀を振り回したり、樹に登っている方が性に合っている。よく男装しては町に出て、市井で暮らす人々や賑わう店店を覗いていたものだ。
泰雅とは最初、すれ違いばかりの日々であった。新婚初夜から泰雅は寝所を共にしようともせず、泉水はまたそれを辛いは思わずに一人、独身時代のように気随気ままに過ごしていた。それがひょんなことから二人は町中で互いを夫婦とは知らずにめぐり逢い、恋に落ちたのだ。
頭上から降り注ぐ陽差しがうなじを灼くようで、泉水は思わず空を振り仰ぐ。額から流れ落ちた汗の玉がうなじを伝い、背筋まで流れてゆくのに顔をしかめ、盛大な溜息を洩らした。ねっとりとした周囲の大気が膚にまとわりつくようだ。風一つない油照りに、眼前の川の面もひっそりと静まり返り、夏の陽差しに鈍い光を放つのみであった。
泉水は和泉橋と呼ばれる小さな橋を渡り、賑やかな町へと脚を踏み入れる。名もない川にかかる橋一つを境に、上手は閑静な武家屋敷が並ぶ和泉橋町、下手はその名のとおり、名だたる大店が軒を連ねる活気溢れる商人の町、町人町だ。泉水の良人榊原泰雅の住まいである屋敷もこの一角にある。
泰雅は五千石取りの直参旗本であり、歳は二十五、稀代の女好きだが、なかなかの切れ者と評判だ。もっとも、勘定奉行槙野源太夫の息女泉水を娶ってからというもの、その女狂いもひっそりと鳴りを潜め、泰雅は妻一人を守るという以前の彼からはおよそ考えられぬ日々を過ごしている。
泉水は今、その町人町の中でもひときわ人通りの多い往来を歩いていた。錚錚たる大店がひしめくこの大通りは、呉服太物問屋、小間物問屋を初め、女性の興味を惹く品を扱う店も多い。泉水はとある小間物屋の前でふと脚を止めた。季節外れのものではあるけれど、店先に並んでいる品々の中の一つの眼が止まった。比較的安価なものばかりが並んでいる中から、玉かんざしを手に取ってみる。
そっと振ると、耳許でしゃらしゃらと涼やかな音が響く。素材は黄楊、上部には数個の桜の花が群れ咲いている様子をかたどっており、下方に玉がついている。地味ではあるけれど、なかなか愛らしい簪だ。
嫁ぐ前は〝槙野のお転婆姫〟などとありがた迷惑なあだ名で呼ばれていた泉水、屋敷の奥で座っているよりは庭で木刀を振り回したり、樹に登っている方が性に合っている。よく男装しては町に出て、市井で暮らす人々や賑わう店店を覗いていたものだ。
泰雅とは最初、すれ違いばかりの日々であった。新婚初夜から泰雅は寝所を共にしようともせず、泉水はまたそれを辛いは思わずに一人、独身時代のように気随気ままに過ごしていた。それがひょんなことから二人は町中で互いを夫婦とは知らずにめぐり逢い、恋に落ちたのだ。