胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第8章 予期せぬ災難
半ば無理強いのような形で泰雅と結ばれ、泉水が一時、実家に逃げ帰るという事件があり、漸くそれがひと段落ついたかと思えば、次は泰雅に側室や隠し子がいる―との芳しからぬ噂が立ち始め、大騒動の火種になった。が、その側室というのが泰雅の助けた女で、泰雅の落胤というのは女が騙された男との間に儲けた子であった。おそのという女は、末を言い交わした男に裏切られ、絶望して身投げしようとしていたところを泰雅に助けられのだ。
すべてが誤解であり、根も葉もない噂であると知り、泉水は漸く泰雅に対する疑惑を消すことができた。あれからひと月、江戸は今、容赦ない真夏日が連日続いている。泰雅とは以前と変わらぬ毎日を過ごしていた。
泉水は今日、こっそりと屋敷を抜け出していた。良人泰雅からは絶対に一人で町に出てはならぬと固く禁じられている。しかし、そんな命に素直に従う泉水ではない。実は、これまでにも二、三度、泰雅には内緒で乳母の時橋の眼をかすめて、こうしてお忍びで町を闊歩している。
―良いな、どのようなことがあっても、勝手に町へ出てはならぬぞ。泉水が考えている以上に、町は物騒なんだ。お前の知らねえような裏の世界だってこの世には存在する。お前にもしものことがあったら、俺はいくら後悔しても後悔のしようがない。第一、そんなことにでもなれば、槙野の義父上にも顔向けならぬからな。
良人の言葉に、いかにも殊勝げに頷いて見せた泉水であったが、うつむいたまま小さく舌を出していた。
泰雅が考えるほど、泉水はやわなお姫さまではない。剣はかつては町の道場でならしたほどの腕前だし、いざとなれば我が身一人くらいは自分で守れる自信はある。いわゆる世間的な女性の範疇に入るような娘ではなく、男に守って貰おうなぞと甘えたことを考えているわけではないのだ。
時橋は泉水が生まれたときからずっと傍にいる乳母だ。五歳で生母を失った泉水にとっては、母同然の存在である。泉水が榊原に嫁いでくる際も付き従ってきた。心底から泉水を案じ、我が娘のように大切に思ってくれる優しい乳母だ。少々口うるさいのがなければ、なお良いのだが。
すべてが誤解であり、根も葉もない噂であると知り、泉水は漸く泰雅に対する疑惑を消すことができた。あれからひと月、江戸は今、容赦ない真夏日が連日続いている。泰雅とは以前と変わらぬ毎日を過ごしていた。
泉水は今日、こっそりと屋敷を抜け出していた。良人泰雅からは絶対に一人で町に出てはならぬと固く禁じられている。しかし、そんな命に素直に従う泉水ではない。実は、これまでにも二、三度、泰雅には内緒で乳母の時橋の眼をかすめて、こうしてお忍びで町を闊歩している。
―良いな、どのようなことがあっても、勝手に町へ出てはならぬぞ。泉水が考えている以上に、町は物騒なんだ。お前の知らねえような裏の世界だってこの世には存在する。お前にもしものことがあったら、俺はいくら後悔しても後悔のしようがない。第一、そんなことにでもなれば、槙野の義父上にも顔向けならぬからな。
良人の言葉に、いかにも殊勝げに頷いて見せた泉水であったが、うつむいたまま小さく舌を出していた。
泰雅が考えるほど、泉水はやわなお姫さまではない。剣はかつては町の道場でならしたほどの腕前だし、いざとなれば我が身一人くらいは自分で守れる自信はある。いわゆる世間的な女性の範疇に入るような娘ではなく、男に守って貰おうなぞと甘えたことを考えているわけではないのだ。
時橋は泉水が生まれたときからずっと傍にいる乳母だ。五歳で生母を失った泉水にとっては、母同然の存在である。泉水が榊原に嫁いでくる際も付き従ってきた。心底から泉水を案じ、我が娘のように大切に思ってくれる優しい乳母だ。少々口うるさいのがなければ、なお良いのだが。