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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第8章 予期せぬ災難

 今頃、時橋はカンカンになっているに相違ない。泉水はいつも時橋の眼をうまくごまかして、いつのまにか屋敷から抜け出すのだ。子どもの頃からのことゆえ、もうすっかり慣れている。そして、その度に、時橋は歯がみし、帰ってきた泉水は延々と実に一刻余りお説教を聞かされる羽目になるのは毎度のことだ。
―お方さま、いついつまでも童のようななりをして町中をうつろくなど、この名門榊原家の奥方さまとしてのご自覚がなさすぎます。
 時橋が大真面目な顔で小言を述べるときの表情を思い出し、泉水は知らずクスリと笑った。今日もまた、帰ったら、さぞ大目玉を喰らうことだろう。
 だが、泉水は時橋に怒られるのは嫌いではない。―なぞと言えば、時橋は余計に怒り狂うだけだろう。幼くして母を亡くし、父源太夫は泉水には優しかったけれど、公務が忙しく、なかなか遊んで貰えることなどなかったのだ。その中で、時橋の存在だけが泉水にとっては心のよりどころであった。時橋がいなければ、泉水の子ども時代は随分と味気ないものになっていただろう。
 そう、いささか煩いが、心優しいこの乳母のお陰で、泉水は淋しさを感じたことはなかった。これからは少しでも時橋のこれまでの労に報い、親孝行の真似事でもしてやりたいと考えている。と思うのであれば、少しは時橋の言葉にも耳を傾け、ここは屋敷で大人しくしていた方が良いのは判り切ってはいたのだが、どうも屋敷深くに閉じこもりきりで日がな琴をつま弾いたり、侍女たちを相手に貝合わせをするというのは苦手だ。
 ついつい子どもがいつまでも母親に甘えるのと同様、時橋には心配ほかけるようなことばかりしてしまう。だが、泰雅や時橋の言葉をとりたてて深刻に受け止めていなかった我が身の浅はかさ、世間知らずさを思い知ることになろうとは泉水はこの時、考えもしなかった。
 泉水は思い出し笑いをしながら、愛らしい玉かんざしを手に取り、しげしげと眺めた。〝お転婆姫〟と異名を取る泉水もこのような小物には全く興味がないというわけではない。何と言っても、まだ十七歳の娘なのだ。それに、このかんざしは控え目でありながら、可愛らしい雰囲気もあり、かえって派手やかでないところが気に入った。元々、あまりに目立つ、きらびやかなものはあまり好きではないのだ。

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