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天空(そら)に咲く花~あのひとに届くまで~

第5章 母子草

 その数日後のことである。
 木檜藩上屋敷に意外な訪問者があった。
 藩主嘉亨の正室―否、正しくは前夫人である尚姫が訪ねてきたのだ。
 尚姫は老中水野忠篤の妹に当たる。十年前、十七歳で嘉亨に嫁いできたが、夫婦仲は結婚当初からよそよそしかった。万事に派手好きで芝居見物や贔屓の役者に熱を上げていた尚姫と、寡黙でおよそ感情を表に出すことのない嘉亨はどこまでいっても相容れなかったらしい。
 水野家といえば、代々十万石を領し、先代、つまり尚姫の父も老中を務めている。内証は裕福とはいえ、三万石の小藩の藩主にすぎない嘉亨に嫁すことには抵抗があったのかもしれない。嘉亨は質素倹約を旨とし、平素の生活も万事につけ華美を嫌った。
 一方の尚姫は衣装道楽が有名で、湯水のごとく金を使い、豪奢な打掛や小袖を新調していたという。そんな尚姫の眼に、いつも地味ななりをして冗談の一つも言わず、本ばかり読んでいる良人は物足りない、つまらぬ男と映じたようだ。
 尚姫は入輿の三年後に第一子清冶郞をあげたものの、夫婦仲は依然として険悪で、尚姫は清冶郞が三歳になってほどなく屋敷を出た。最初は世間体もあって尼寺に身を寄せた尚姫であったが、ひと月後には実家に戻り、更にその一年後、正式に両家の間で離縁ということになった。
 以来、尚姫は実家で悠々自適の日々を送り、木檜家に訪ねてくることも一度としてなかったのだ。それが今頃になって何故、突然の来訪を思い立ったのか。八重は夫人の訪れを知り驚愕したものの、春日井から事情を聞かされ、更に愕き呆れた。

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