天空(そら)に咲く花~あのひとに届くまで~
第1章 第一話〝招き猫〟―旅立ち―
弐兵衛が誰に言うともなしに言う。
弥栄はすぐに座を立ち、障子戸を一杯に開けた。
弐兵衛の居間から見渡せる庭には、桜が一本、植わっている。薄紅色の花をたわわにつけた樹は、風が通り抜ける度にはらはらと雪のような花びらを散り零した。
その傍らには黄金色の山吹が見事に咲き誇っている。まさに、春たけなわの光景が部屋の向こうにひろがっていた。
しかし、今の弥栄には、そのような百花繚乱の庭もどこか遠い世界のもののように思えた。弐兵衛がこうしてわざわざ真っ昼間に自分を呼び出したからには、ろくな話ではないことは予感できたからだ。
弐兵衛はそんな弥栄を無表情に見つめている。
「ところで、先日の件―万屋(よろずや)さんのところの駒平さんとの縁談のことだがね。あれからもう半月以上になる。そろそろ返事をとあちらからも矢のような催促で、実のところ、私も困っているんだよ。どうだい、気持ちは固まったかい」
やはり、その話かと、弥栄は唇を噛みしめた。
今から半月ほど前のことになる。三月の半ば頃、弥栄は万屋という古道具屋の跡取り息子と見合いをした。紹介してくれる人があって、弐兵衛も女房のおすみも最初から大乗り気であった。
見合いは深川の小ぎれいな料理屋の二階を借りて行われた。仲人と母親に付き添われて現れた駒平は、上背のある色の白い、見ようによっては整った面立ちの男であった。歳は二十三、十六の弥栄とも釣り合う。
だが、弥栄はひとめ見て、駒平のような男は厭だと思った。とにかく無口で、ひと言も喋らない。無口なのは自分も似たようなものだからまだ良いとしても、良い歳をして、一事が万事、母親の言うなりである。また、付き添ってきた母親も駒平と瓜二つの目がつり上がった狐顔で、美人といえるのかもしれないが、終始、倅の自慢話ばかり、その合間には傍で息子の世話を焼きっ放しである。
弥栄はすぐに座を立ち、障子戸を一杯に開けた。
弐兵衛の居間から見渡せる庭には、桜が一本、植わっている。薄紅色の花をたわわにつけた樹は、風が通り抜ける度にはらはらと雪のような花びらを散り零した。
その傍らには黄金色の山吹が見事に咲き誇っている。まさに、春たけなわの光景が部屋の向こうにひろがっていた。
しかし、今の弥栄には、そのような百花繚乱の庭もどこか遠い世界のもののように思えた。弐兵衛がこうしてわざわざ真っ昼間に自分を呼び出したからには、ろくな話ではないことは予感できたからだ。
弐兵衛はそんな弥栄を無表情に見つめている。
「ところで、先日の件―万屋(よろずや)さんのところの駒平さんとの縁談のことだがね。あれからもう半月以上になる。そろそろ返事をとあちらからも矢のような催促で、実のところ、私も困っているんだよ。どうだい、気持ちは固まったかい」
やはり、その話かと、弥栄は唇を噛みしめた。
今から半月ほど前のことになる。三月の半ば頃、弥栄は万屋という古道具屋の跡取り息子と見合いをした。紹介してくれる人があって、弐兵衛も女房のおすみも最初から大乗り気であった。
見合いは深川の小ぎれいな料理屋の二階を借りて行われた。仲人と母親に付き添われて現れた駒平は、上背のある色の白い、見ようによっては整った面立ちの男であった。歳は二十三、十六の弥栄とも釣り合う。
だが、弥栄はひとめ見て、駒平のような男は厭だと思った。とにかく無口で、ひと言も喋らない。無口なのは自分も似たようなものだからまだ良いとしても、良い歳をして、一事が万事、母親の言うなりである。また、付き添ってきた母親も駒平と瓜二つの目がつり上がった狐顔で、美人といえるのかもしれないが、終始、倅の自慢話ばかり、その合間には傍で息子の世話を焼きっ放しである。