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天空(そら)に咲く花~あのひとに届くまで~

第5章 母子草

「あの奥方は一体、何をお考えになっておるのでしょうな。今更、どのような顔をして当家をお訪ねになったものでしょう。春日井どの、このようなことを申しては何ですが、あの奥方がさっさとご実家にお帰り下されたのは殿にとっては幸いにござりましたぞ。あのように金遣いもやたらと荒く、派手好きな女など妻にしておいて良いことは何もござらぬ。おまけに実家の水野さまのご威光を傘に着て当家を田舎の小大名と侮っておることは明白」
「酒井さま、尚姫さまは最早、殿の奥方にはおわしませぬ。物言いにはお気をつけなされませ」
 やんわりとたしなめられ、酒井は赤面する。
「これはしたり、奥方さまではなく、先の奥方さまでしたな」
 齢は酒井の方がわずかに上だが、殿を襁褓の頃から育てたこの女人には江戸家老も一歩も二歩も退いている。
 春日井はいつものように沈着さを失わぬ様子で続けた。
「若君さまのゆく先は、お付きの八重が存じておりましょう」
「若君さまお付きの腰元と申せば、過日、殿より内々にお話のあった、例の娘にござりますか」
 酒井が唸る。
 藩主嘉亨が嫡子清冶郞付きの腰元を突如として正室に迎えたいとの意向を表明したのだ。現在、そのことを知るのは酒井と春日井の二人だけだ。嘉亨は藩内の動揺を想定して、まず春日井と江戸家老の二人のみに自分の意を伝えたのである。

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