テキストサイズ

天空(そら)に咲く花~あのひとに届くまで~

第5章 母子草

 八重は心当たりの場所を順に探していった。まず随明寺に行ってみたけれど、広大な境内のどこにも清冶郞の姿はなかった。最奥部の浄徳大和尚を祀る奥ノ院や春には桜の名所として賑わう大池周辺まで脚を伸ばしてみたが、やはり清冶郞はいない。
 八重は随明寺の山門を出て長い石段を降りながら、途方に暮れた。清冶郞は江戸の町に出たことは殆どない。数日前、八重と共にお智の家を訪ねたのが生まれて初めての屋敷外への外出だったのだ。江戸市中で彼が知っている場所といえば、先日出かけた随明寺とお智の家くらいしかない。
 そこで、八重はハッとした。随明寺にいないとすれば、後はもう一つだけしかない。それは、やはり、お智の住まいだろう。人間というものは誰しも見知らぬ場所よりは、自分の知っている場所、もしくは一度でも行ったことのある場所に行こうと考えるものだ。
 だとすれば、清冶郞が赴いたとして考えられるところは限られている。八重はそう思うと逸る心を抑え、お智の住まいまで走った。
 お智の住まいは町人町の一角にある。目抜き通りではないが、そこそこに賑やかな往来沿いに建っている。八重の伯父弐兵衛が営む伊予屋からも遠くはなかったが、八重はむろん伊予屋を訪ねる気など毛頭ない。
 第一、伯父を訪ねる気があれば、先日訪ねていただろう。
 町人町は、木檜藩の上屋敷がある和泉橋町とは橋一つ隔てた先である。和泉橋という小さな橋を境として商家がひしめく商人の町と閑静な武家屋敷町が相対しているのだ。
 八重が荒い息を吐きながらお智の家の前に立った時、既に長い夏の陽は傾きかけていた。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ