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天空(そら)に咲く花~あのひとに届くまで~

第6章 撫子の君

 三年前、春日井は結婚するためにお屋敷を下がる腰元から、生まれたばかりの子猫を譲り受けた。その猫が虎姫である。
 当時、虎姫と名付けた春日井に対し、坂崎は
―いかに殿の乳母にして老女といえども、主家にお仕えする一奉公人にすぎぬ。その分際で飼い猫に姫と名付けるとは常識知らずもはなはだしい。
 と、烈火のごとく抗議したそうな。
 しかし、嘉亨自らが
―良いではないか。たかだか猫の名前一つで、そのように目くじら立てる必要もなかろう。姫という呼び名を尊称だと思えば、腹も立つのなら、いっそのこと虎姫という一つの名前だと思えば良い。
 虎という名前に姫を付けて奉った言い方をするわけではなく、虎姫というひとくくりの名前だと思えば良い。
 そう言ったお陰で、その虎姫は春日井の局で悠々自適の日々を過ごし、丸々と太っている。その名のとおり、虎縞模様の毛並みは手入れがよく行き届いて、つややかだ。しかし、どういうわけか、この猫、名前に関しては坂崎に恨みがあるせいか、嘉亨には喉を鳴らしてすり寄っていくくせに、坂崎を見ると毛を逆立てて唸り、威嚇する。
 ちなみに、この虎姫は雌猫である。
 坂崎は、
―猫のくせに、面食いだ。
 と余計に機嫌が悪い。言わずもがな、嘉亨こと〝殿〟は奥向きの女たちの誰もがお手つきになりたいと願う美男であり、対する坂崎は、どこから見ても女人にはモテそうにない将棋の駒を思わせるいかつい顔だ。
「あの虎姫に大切なみけとたまを食べられぬように、十分用心するが良い」
 嘉亨はまだ笑いながら、幼い息子にそう注意した。
「あっ」

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