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天空(そら)に咲く花~あのひとに届くまで~

第6章 撫子の君

 当世流行の戯作者が書いた脚本はその題も〝冥土の道行き〟。
 吉原の遊廓〝はな乃屋〟の遊女亀菊と日本橋の小間物問屋の主人太兵衛の悲恋物語だ。
 亀菊と太兵衛は深間になり、二世を誓うが、既に太兵衛には十年連れ添った妻と二人の子がいた。女房と亀菊の間で揺れ動く男の心を知り、亀菊は来世で結ばれようと寝物語に差囁いたのは嘘であったのかと詰め寄る。
 もし、あの誓いが嘘でないというのなら、今、ここで見事、懐剣で胸を刺し貫いてみてくれ、そうしたら、私は主さんのあの約束がまさしく真であったと信じよう。むろん、主さん一人を逝かせはしない。
 男が死んだのを見届けたら、自分もすぐに同じ刃で喉をかききり、後を追う。亀菊は懐剣を男の手に握らせて迫るのである。
 結局、太兵衛は亀菊を振り切れず、女が差し出した懐剣で心ノ臓を貫き、事切れる。亀菊は死んだ男の傍らで涙ながらに呟く。

―あれ、嬉しや。これで主さんは未来永劫、あちきのもの。この上は、あちきもすぐに後を追うて冥土で連理の枝、比翼の鳥ともなって添い遂げなんしょう。

 この後、亀菊は太兵衛の側で愛しい男のチに濡れた懐剣で白い喉をかききって壮烈な最期を遂げる。
この〝冥土の道行き〟は浄瑠璃芝居として数年前に初めて江戸で興行されてから、既に何十回となく繰り返され、江戸っ子たちの涙を誘った。八重はまだ一度として芝居を観たことはないが、実話を元に描かれたこの話の内容を初めて聞いた時、吉原の雪月楼の花魁白妙と心中を遂げた父絃七のことを思い出さずにはいられなかった。

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