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天空(そら)に咲く花~あのひとに届くまで~

第6章 撫子の君

―恋は魔物だって言うからな。ある日、突然、心の中に忍び込んで、人を狂わせちまう。お前も悪ィ男に引っかからねえように十分気をつけるんだぞ。
 亡くなる数日前に、ふと洩らした父の言葉の意味を、八重は今更ながらに知ったのだ。
 そう、まさしく恋は魔物。遊女亀菊の色香に迷った太兵衛も、白妙花魁に魅了され、心奪われた父も恋という魔物に魂を喰らわれてしまったのだ。
 八重もまた、その魔物に魂を持ってゆかれてしまったのだろう。
 今、嘉亨と二人で月明かりに仄白く浮かんだ道を歩いていると、自分が浄瑠璃芝居の一幕を演じているかのような錯覚に、否、まさに冥土へ続く恋の道を歩いているような気になってしまう。
 いっそのこと、本当にそうだったならと空恐ろしい望みさえ抱きそうになり―、八重は自分が自分で判らなくなる。
 嘉亨はたとえ小藩とはいえ一国を統べる身であり、その肩に大きなものを背負っている。一介の女中にすぎない腰元の八重とは住む世界が身分が違う。嘉亨の側にいればいるだけ、途方もない身の程知らずの夢を見てしまいそうになるのだ。
 八重が黙り込んでいるのを、嘉亨は勘違いしたようだ。
 八重の意識は、嘉亨の声に突如として現に引き戻された。
「清冶郞が黙って一人で屋敷を出たのは、何もそなたのせいではない。そのことは、私が春日井や坂崎主膳にもよく申しておくゆえ、そなたは堂々と胸を張って戻れば良いのだ」
 嘉亨は、八重が春日井に

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