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天空(そら)に咲く花~あのひとに届くまで~

第6章 撫子の君

「清冶郞のためにも責めを負うて暇を取るなぞと申さず、これからも務めてやって欲しい」
 嘉亨は吐息混じりに言った。
「たとえ口にはせずとも、春日井も主膳も清冶郞が何ゆえ屋敷から飛び出したか、その理由は重々承知しておるはずだ」
 小さく首を振り、嘉亨は低い声で続けた。
「酷いことをする。再嫁する前に清冶郞の顔を見たいと思う気持ちも判らぬではないが、これまで放っておいたのであれば、いっそのことこのまま逢わずに嫁げば良いものを。母に逢ってしまったあの子がこれから先、余計に母を恋い慕うようになる子の心があれには判らないのだ。昔と変わらぬ。いつも我が身のことばかりしか考えぬ女だ」
 苦渋に満ちた表情で語る苦々しげな口調の中に、ほんのわずかに混じる感情は何なのか。
 〝あれ〟と尚姫を呼ぶときの切なそうな響きや表情は気のせいだろうか。
 もしや、やはりいまだに殿は奥方さまをお忘れではないのではと、焦りにも似た想いが胸の内を駆けめぐる。
 いつも物静かな男の心の深淵に思い当たると、不吉な予感を憶えた、その奥底に潜むものは、間違いなく離別した奥方の面影だろう。
 氷の欠片(かけら)を呑み込んだかのように、胸の奥がつきんと痛む。
 水無月の雨の日、清月庵で感じたときの切なさにも似た気持ちがこの時、決定的なものとなった。そう考えただけで、八重の心が妖しく波立つ。
 その時、ハッとした。これがもしかして嫉妬というものではないのか。この気持ちは、妬ましさとはいっても、嫁ぐお智に対する羨ましさとは全く次元の違うものだ。嘉亨という男を軸にして、尚姫と男の愛を得ることにかけての女の闘いともいえる。恋愛において他人を妬むなどという経験の一度としてなかった彼女は居たたまれなくなり、己れの心の醜さを思い知らされたような心地がした。

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