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天空(そら)に咲く花~あのひとに届くまで~

第6章 撫子の君

それでも、八重は、嘉亨のためにその想いを心の底に沈めるしかなかった。嘉亨に惹かれているからこそ、身を退くのだ。それは、けして愛してはならぬ男を愛してしまった我が身への罰ともいえる。
 いや、本音を言えば、八重はどこかで怖れているのかもしれない。嘉亨の本心を知ってしまったら、その時点でこの恋が終わりそうな気がして。大体、嘉亨のような大人の男の眼に、自分のような世間知らずの小娘がどのように映るのかは皆目見当もつかない。尚姫に比べれば、八重は教養もなく、さして器量も良くはない。もっとも、老中の姫君として大切にかしずかれて育ったやんごとなき姫君と自分を比べる方がおこがましいのかもしれないが。
 嘉亨にはさぞかし、つまらない女に見えるだろう。あの清月庵での出来事も、殿さまにありがちなほんの気紛れにすぎないに相違なかった。いつもきれいで心利いた女性ばかり見ている嘉亨の眼に、たまたま八重が珍しく映ったのだ。
 上屋敷の奥向きの腰元たちは、いずれも美貌ばかりで、その上、皆、相応の家柄の家臣の娘だった。八重のような町人出もいないわけではないが、それにしても大店の娘がつてを頼り重臣を仮親として上がったのであって、身寄りのない帰る家すらない八重とは違う。
 尚姫を酷い母だと言う嘉亨に相槌を打つわけにもゆかず、八重はただ黙ってその言葉に耳を傾けるしかない。
 その時、嘉亨のまなざしと八重のまなざしがふと交わった。
 迂闊に近寄れば、吸い込まれてしまいそうな、漆黒の闇を宿した瞳が八重をじっと見つめている。親しみやすさを感じる春の陽だまりのような笑顔にも拘わらず、時折ちらりとかいま見せる淋しげな表情。

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