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天空(そら)に咲く花~あのひとに届くまで~

第6章 撫子の君

 眼を引かれずにはいられない端整な顔立ち。その涼しげな眼許に翳が落ちる。
 嘉亨の顔が次第に近付いてくる。
 互いの呼吸すら聞こえそうなほど間近に、嘉亨の美麗な面が迫っていた。
 そっと唇が降りてきて、八重のやわらかな唇に重ねられる。
 八重は、その束の間の出来事をまるで他人事のようにぼんやりとした意識で受け止めていた。
 最初はついばむような軽い接吻が徐々に烈しさを増してゆく。正気に返った八重が混乱のあまり、身を離そうとすると、八重の腰に回った嘉亨の右手にすかさず力がこもった。
「そなたが好きだ」
 掠れた声が耳朶をくすぐる。
 八重は吐息混じりのその声に金縛りに遭ったように動けなくなった。男のたったひと言で全身を縛められたように、身じろぎもできない。
 あれほど恋い慕っていた嘉亨からとうとう想いを打ち明けられたというのに、歓びや嬉しさよりも愕きと戸惑いの方が大きいのは何故だろう。
 八重の傍をそっと夜風が通り抜けてゆく。
 季節はゆっくりと、確実にうつろってゆく。
 昼間はまだ容赦ない暑さが続いているが、吹く風には、気付かないほどかすかに秋の気配を含んでいた。
 気の早い秋の虫が鳴き始めたのを、その年、八重は初めて耳にしたのだった。
  (第二話 茜空 は今日で終わり、明日からは第三話へ)

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