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天空(そら)に咲く花~あのひとに届くまで~

第7章 第三話〝凌霄花(のうぜんかずら)〟・蜜月

―もう二度と人を愛することなどないと思うておったが―。
―もう一度だけ、人を信じ幸せというものを夢見てみたいと思うようになった。
 ほんの些細なことではあっても、まるで魚の小骨が引っかかったような、厭な感じが拭えない。嘉亨の言葉に、何か胸騒ぎのようなものを感じてしまう。
 というのも、八重は嘉亨がいまだに前妻である尚姫を愛しているのではないかと思い込んでいるからだ。
 二人が結婚当初から上手くいっていなかったというのは、上屋敷の人間なら誰でも知っていることだ。しかし、嘉亨のふとした物言いや表情には、それだけではないか何か―尚姫への複雑な想いが透けて見えるような気がしてならない。疎ましさだけではなく、昔を愛おしむような、懐かしむような響きがこもっているような。
 黙り込んだ八重を見つめ、嘉亨は苦笑する。
「そなたには、私の気持ちは迷惑なのであろうか」
「―いいえ」
 ややあって、八重は消え入るように応えた。
 気遣わしげに眺めやった嘉亨が小さく吐息を吐く。
「むろん、今すぐに返事をとは言わぬ。そなたにも家のこと、家族のこと、様々に考えねばならぬことはあろう。だが、もし、私を嫌いというのではなければ、この話を前向きに考えて欲しいのだ」
 八重に家族はいない。八重は元々は江戸でも名の知られた大店紙絃の一人娘であったが、父絃七は吉原の売れっ妓花魁白妙と三年前、心中して果てた。その後、伯父弐兵衛に養女として引き取られた八重であったが、実子のおらぬ弐兵衛・おすみ夫婦がおすみの甥弐助を引き取るにつけ、家から半ば追い出されるような形で御殿奉公を勧められた。

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