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天空(そら)に咲く花~あのひとに届くまで~

第1章 第一話〝招き猫〟―旅立ち―

 弥栄はふらふらと立ち上がり、部屋を出た。
 障子を閉める間際、ふと視界に飛び込んできた庭の風景が涙で霞む。
 やはり、弥栄には光を弾いて咲き誇る桜も、風に揺れる山吹も縁遠いものだった。暗澹とした気持ちで部屋を出た弥栄は、思わず零れそうになった涙をそっと人さし指で拭い、急ぎ足でその場を逃げるように去った。
 結局、その翌日、弥栄は弐兵衛に木檜藩の上屋敷に上がる話を了承したと伝えた。
 伯父に言われずとも、恩義を受けた弐兵衛にこれ以上逆らうすべがないことは十分心得ていた。まだしも、あの生っ白い駒平の女房になれと無理強いされるよりは、こちらの方がマシだったと、自分で自分を慰めるしかなかった。
 よもや、伯父が厄介払いのために持ち込んだこの話が弥栄の一生を大きく変えることになるとは、この時、弥栄はおろか当の弐兵衛さえ知ることはなかった―。

 弐兵衛にその返事をしてからというもの、弥栄はお屋敷に上がる支度に追われた。といっても、身一つで伊予屋に来たものだから、何も自分のものといって持参するものはない。このような時、父絃七が健在であれば、色々と張り切って支度を整えてくれたろうが、今の弥栄には、親身になってくれる身寄りも頼りとすべき後ろ盾も何もないのだ。
 それでも、伯父は餞別のつもりか、何枚かの小袖を新調してくれた。後は本当に何もない、哀しいほど身軽で旅立つことになるはずだった。
 その数日後、弥栄は仕立物の稽古に通っていた師匠の許に挨拶に出向いた。裁縫の師匠は、若い時分は江戸でも少しは名の知られた料亭の女将だった人である。亭主にも先立たれ、かれこれ五十を過ぎた今では、息子夫婦に後を任せ、自分は町人町の一角に一軒家を構え、悠々自適の暮らしをしていた。

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