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天空(そら)に咲く花~あのひとに届くまで~

第8章 哀しい別離

 しばらく沈黙が落ちた。
 その間にも、長い夏の陽は暮れ、空はすっかり夜の色に様変わりした。客間から見渡せる小庭も宵闇の底に沈んでいる。菫色の空には月は見えず、星だけが煌めいていた。
 淡い星明かりの下で見る凌霄花は、また昼間の佇まいとは変わって見える。熟した色香を撒き散らす年増女から、星明かりにも恥じらいを見せる奥ゆかしい女に見えてくるから不思議だった。
「素直におなりよ。一生後悔するよ」
 随分唐突なおさんの言葉も、そのときの八重にはごく自然に発せられたもののように思えた。
「お弥栄ちゃんが話さなくとも、大体のところは察しがついているさ」
 八重が眼を見開く。
 おさんがしたり顔で肩をすくめた。
「このおさんさんを見くびって貰っちゃア困るよ。これでも、深川では、ちったァ名の知れた〝名月(めいげつ)〟の女将をだてに三十年やってたわけじゃないんだからね」
 いつか聞いたところによると、おさんは二十歳で〝名月〟の女将になったそうだ。十七で名月の跡取り息子に嫁いできて三年めに姑が中風で倒れ、まだうら若いおさんが急きょ、女将として名月を切り盛りしなければならない仕儀となった。
 当時、既に舅は亡くなり、おさんの良人である康蔵(こうぞう)は包丁を握らせれば人を唸らせるほどの腕を発揮したものの、料亭の経営となると、からしき駄目な男だった。
 おさんに言わせれば
―要するに商人向きじゃなかったのさ。算盤を弾く才覚なんてものは、まるでなかったね。
 つまるところ、二十歳の若女将一人で事実上、店を回してゆかなければならなかった。

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