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天空(そら)に咲く花~あのひとに届くまで~

第8章 哀しい別離

 最初は周囲も名月がどうなることかと危ぶんだものの、勝ち気で頑張り屋のおさんは死に物狂いで努力して、何とか数代続いた老舗料亭の暖簾を守り抜いた。康蔵は名月の主人でありながら、それは形式だけのことで、事実上の主人はおさんであった。
 女将として奮闘する傍ら、板前をする亭主との間には三人の子を儲け、子育てもした。中風で寝付いた姑の介護にも手を抜かず、その最期を看取った。
 亭主には連れ添って二十年めに先立たれ、更にそれから十年、女将として名月の暖簾を守り続けた。そして、五十になったのを潮に、三十一の長男に暖簾を譲り隠居した。
 住み慣れた深川を出て、町人町の仕舞屋に引っ越してきたのも同じ頃のことである。お針が得意だったことを活かして裁縫教室の看板を上げたところ、おさんの気っ風の良さや確かな腕が評判を呼び、たちまちにして生徒が集まった。以来、嫁入り前の娘たちに裁縫を教えながら、一人でのんびりと暮らしている。
 二十歳で女将になったばかりの頃、おさんには既に長男が生まれていた。乳呑み児を抱えて、慣れぬ女将業をするのはさぞかし大変だったのではないか。
 ある時、おさんの昔話を聞いていた裁縫教室の娘の一人がそう言った。その時、おさんは呵々大笑した。
―何をお言いだい。最初から駄目だと思えば、上手くゆくものだって上手くはゆかない、失敗するさ。要は、何とかなると思うことさ。何とかなると思やァ、不思議なもので、人間は自分でも思わぬほどの物凄い力が出るものでね。あたしも、その火事場の何とかって奴で窮地を乗り越えたんだよ。

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