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天空(そら)に咲く花~あのひとに届くまで~

第10章 第四話〝空華(くうげ)〟・すれ違い

 その絵を見た刹那、頭からいきなり冷水を浴びせかけられたような気がした。眼の前が真っ暗になる。八重は、この部屋が〝芙蓉の間〟と奥女中たちから呼ばれていることを知っている。その理由が、今になって漸く判った。掛け軸の中の女は、芙蓉の花を背景に婉然と微笑し、そのたおやかな身に纏っている打掛の柄もまた淡い紫地に白い芙蓉の花の画が散っていた。
 芙蓉の間が平素から〝開かずの間〟として一切の者が入室を固く禁じられていることを思い出し、八重は慌てて逃げ去るように部屋を出た。後ろ手で襖を閉め、深い息を吐く。
 部屋を出てもまだ、自分でもそれと判るほど心ノ臓は音を立てていた。なるほど、この部屋が何故、芙蓉の間なのかは納得がいった。
 いや、この部屋の名の由来など、この際どうでも良い。あの肖像画の主がそも誰かはすぐに判った。―あろうことか、芙蓉の花に囲まれて微笑しているあの女人は、嘉亨の先の奥方であった! それが判じ得たのは、何も八重が嘉亨の前妻尚姫に一度逢ったことがあるからだけではない。
 こうしてみると、去年の夏に亡くなった清冶郞と尚姫は実によく似ていた。清冶郞は嘉亨の長男であり、八重は元々は清冶郞付きの腰元として上屋敷に奉公に上がったのである。最初は頑なに心を閉ざし八重にも打ち解けようとしなかった清冶郞だが、やがて片時を離さぬほど八重を慕うようになり、〝ゆくゆくは妻にしたい〟とまで宣言するほどのお気に入りようであった。
 しかし、清冶郞は赤児の時分より不治の病に取り憑かれており、到底、成人するまで生き存えることは不可能と医師からも宣告されていた。八重を慕っていた清冶郞は、父と八重がひそかに想いを通じ合わせているのを知り、絶望のあまり雨の中に飛び出し、風邪を引いたのが因で肺炎を起こし亡くなった。まだ、わずかに八歳の幼さであった。

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