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天空(そら)に咲く花~あのひとに届くまで~

第2章 蓮華邂逅(れんかかいこう)

 今は八重が向こうに転がした手毬を清冶郞が取りにいっているところだった。
「若君さま、お駆けになってはなりませぬ」
 毬を拾った清冶郞が嬉しげにこちらに向かって走ってくる。
 八重が慌ててたしなめると、清冶郞の顔が途端に曇った。
「―」
 清冶郞は八重の言葉には従ったものの、その手からポトリと手毬が落ちた。
「若君さま?」
 八重が窺うように訊ねると、清冶郞が唇を噛んでうつむいた。
 八重はハッとした。清冶郞の病が判ったのは一歳になるかならずの頃だという。以来、ずっと何かしようとすれば、すぐに止められ、小走りに走っただけで、〝走ってはなりませぬ〟とお付きの者たちは顔色を変えたことだろう。大切な世継の若君ゆえ、それは致し方のないことだったが、清冶郞当人にとっては辛い日々だったに相違ない。
 ご馳走を食べ、錦の着物を纏っていても、子どもらしく外で遊ぶことも許されぬ日々は、さながら豪奢な鳥籠に閉じ込められた生活に似ていたのではないか。
 今の八重の言い方だって、もう少し気をつければ良かったのだ。転んではいけないと思い、咄嗟に注意したのだが、きつい言い方になってしまったかもしれない。
 八重は立ち上がると、部屋の奥へとゆき、違い棚に載った文箱を取った。ここは木檜藩上屋敷の奥向きの一角、清冶郞の居室である。ゆうに十畳余りあるひろびろとした座敷が三間続いており、真ん中の居間が清冶郞が日中使う部屋であった。その奥は寝所、廊下に近い部屋は腰元―つまり八重が控える控えの間である。
 床の間には菖蒲の絵が繊細かつ大胆な手法で描かれた掛け軸が下がり、その前には備前焼きの大ぶりな壺に本物の菖蒲が活けられている。白と濃紫(こむらさき)のふた色の菖蒲がいかにも初夏らしく、涼やかに見えた。

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