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天空(そら)に咲く花~あのひとに届くまで~

第2章 蓮華邂逅(れんかかいこう)

 と、清冶郞が急にうなだれた。
「私には母上に遊んで頂いた想い出も、親しくお話した憶えもない」
 三歳の清冶郞を置いて、この屋敷を出ていったという正室の尚姫。五歳で母に死に別れた八重には、まだわずかな母の記憶が残っているが、清冶郞が尚姫のことを憶えていなかったとしても不思議はない。
 いや、春日井に言わせれば、尚姫は清冶郞をその腕に抱いたことすら一度としてなかったという。そんな母親であってみれば、清冶郞に母の記憶がなかったのは不幸中の幸いであったのだろうか。
「申し訳ございませぬ。八重が悪うございました。若君さまのご胸中を考えもせず、迂闊な話を致しました」
 心ないことを言ってしまったと、大人げない自分の言動を烈しく後悔した。母の記憶を持たぬ幼子に、母を思い出させるようなことを言ってしまった。それでなくとも、七つの子どもが生き別れた母を恋しく思わぬはずがない。
 八重が手を付いて謝ると、清冶郞は哀しげに微笑んだ。
「それに、私は男子のくせに外で遊んだり、剣術の稽古をするよりは部屋の内で遊ぶ方が性に合っている。―もっとも、私が、外で遊ぼうとしても、誰もが顔色を変えて止める。こんな私が男ではなく姫であればと家老の坂崎主膳を初め皆、重臣どもは申しておるそうな。父上も私のような世継を持たれて、内心ではさぞご落胆なさっていることだろう」
 清冶郞の顔に落ちた翳が更に濃くなる。その暗いまなざしは、到底、七歳の子どものものとは思えない。
 八重はまだこの屋敷の当主である木檜嘉亨に目通りしたことはない。寡黙な人物で、部屋で書見をしていることが多いと聞くが、春日井の話によれば、嘉亨は普段は何かと敬遠している奥向きにも、一人息子に逢いにくるためには訪れるという。実の母に棄てられたも同然の我が子を不憫がり、慈しむ良き父親だとも。

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