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天空(そら)に咲く花~あのひとに届くまで~

第3章 雨の日の出来事

「そう申せば、春日井さまは、お殿さまのおん乳母であらせられたとお聞きしました」
 今年四十七になる春日井は、かつては藩主嘉亨の乳母を務めたこともある。春日井が奥向きでだけでなく、表にも影響力を与えるほどの勢力を持っているのは、そのせいもあった。
「そうなのだ。父上ですら、春日井には頭が上がらぬときがある。私にとっては、ほんに口煩い祖母さまなのだ」
 清冶郞はそう言うと、声を上げて笑った。
「春日井さまの悪口は、もうこれくらいに致しましょう。今頃は、きっと盛大なくしゃみをなさっておいでにございますよ?」
 八重が冗談めかすと、清冶郞は尚更愉しげに笑った。
 ひとしきり笑っていた清冶郞が、ふと真顔になった。
「そなたのような腰元は珍しいな。春日井を怖がる腰元はいても、そなたのようにあの者の真の良さ、優しさを理解しようとした者はいなかった」
「私の父がよく申しておりました。自分の考えに囚われて相手を見ていては、その人の真の姿を見誤ることがある、と。相手の本当の姿を見極めようとするときには、心の眼を澄ませて、その本質を見なければならないとも」
「心の眼を澄ませて―」
 清冶郞が唸った。
「はい、たとえいつも穏やかで笑みを絶やさぬような人でも、その眼を見れば、心から笑っていないかもしれない。その逆に、見かけは怖くて無愛想な人でも、よくよく話してみれば、心の優しい人かもしれない。自分の先入観だけに拘って、真実を見間違えないことが肝要だと教えられました」
 それは、全くの父からの受け売りであったが、幼い清冶郞は鹿爪らしい顔で幾度も頷いた。

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